read the atmosphere

気候変動と科学と社会

〈論文メモ〉Whitmarsh(2011)Scepticism and uncertainty about climate change: Dimensions, determinants and change over time

  • Lorraine Whitmarsh (2011) Scepticism and uncertainty about climate change: Dimensions, determinants and change over time. Global Environmental Change, 21: 690–700.

1. Introduction
  1.1. Discourses of certainty and uncertainty about climate change
  1.2. Public scepticism and uncertainty about climate change
2. Methods
  2.1. Design and participants
  2.2. Measures
    2.2.1. Demographic and lifestyle measures
    2.2.2. Education and knowledge
    2.2.3. Environmental values and political orientation
    2.2.4. Scepticism
3. Results
  3.1. Overall responses
  3.2. Change in uncertainty over time
  3.3. Differences in uncertainty by sub-group
  3.4. Summary
4. Discussion
  4.1. To what extent is the public sceptical about climate change?
  4.2. Who is most sceptical – and why?
  4.3. Why is scepticism not declining – or even increasing?
  4.4. Implications for communication and policy

 

英国市民を対象に、(人為)気候変動に関する懐疑的な認識について調査した研究。著者 Whitmarsh氏の所属するCardiff大学ではClimate Change Communication and Scepticismという研究プロジェクトが実施されており*1、この論文の一部はそのプロジェクトの成果ということらしい。この論文では、市民に気候変動に関する質問に答えてもらった結果を統計的に分析しているのだが、そこで用いられた調査項目はこれ以降の似たような研究でフォーマットとして使われている。その研究をまとめた論文のメモは以前公開した。

以下は私なりの要約。

###

 

〈要約〉

市民の間で気候変動問題の認知度はかなり高いにもかかわらず、多くの人にとってこの問題の優先度は低いままであり続けている。なかには、気候変動の実在性やリスクを公然と否定する人々もいる。ある研究によれば、英国市民の10分の1が人間活動を原因とする気候変動の実在性を否定的にとらえている。気候変動は人為的なものではないと確信している英国市民は少数派だ。しかし、より多くの人々は、この問題の真実味や深刻さの程度に多かれ少なかれ疑いを持っている。

政策決定者や科学の専門家は、科学的知見の確実性が増していることと裏腹に市民の問題の認識や行動がともなわないのは、市民の科学的知識の不足や誤解のせいだと見なしがちであった。しかし、これまでなされてきた社会科学研究は、この仮定の妥当性に疑問を投げかけている。社会心理学は、個人のもつ社会的特性、認知的能力、もともと持っている知識、価値観や好ましいと思う世界の在り方などさまざまな因子によって、同じ情報が異なって処理されうることを示している。気候変動問題の文脈でなされた先行研究は、市民の懐疑度の説明変数として人々の環境観(環境の価値と人間活動の位置づけをどのように考えているか)と政治的志向(支持政党など)の2つがかなり重要である可能性を質的調査によって示した。しかしながら、そのほかの因子も含めた多様な変数のうち、どれが相対的に重要であるかを定量的に調べた研究はない。

本研究の目的は、つぎの3つ。

  1. 英国市民の疑いを多様な指標を用いて定量化すること
  2. 市民のなかで疑いがどのように異なっているか、それと個人的、社会的なちがい(人口統計的要素、ライフスタイル、知識、価値観)がどのように関係しているかを特定すること
  3. 2003年と2008年の調査結果を比較し、市民の懐疑の時間的変化を調べること 

 

調査の結果、懐疑的な市民の割合は、全般的に、時間に対して安定的であることが確かめられた。気候変動の人為性や実在性を否定するひとの割合は10分の1 ~ 5分の1程度であり、少数派のままで、時間的にもかなり安定していることが分かった。例外として、メディアの扇動主義的態度への不信感や、気候変動問題がメディアによって誇張されているとする認識に同意した人は半数弱と、これらの懐疑は広く共有されており、さらに時間とともに、割合が有意に増加していることが分かった。例外的な増加傾向を示すものが情報の伝達媒体(マスメディアなど)への懐疑であったことは特筆すべき点である。

また、懐疑度の説明変数として、環境観と政治的志向の重要性が確かめられた。重回帰分析の結果はこれら二つで50%以上が説明できることを示している。具体的には、政治的志向が保守的であるほど、また、環境に配慮的ではない(ここでは、つまり、環境よりも産業発展の方が優先度が高いと考えている)ほど、気候変動に対して有意に懐疑的である確率が高い。

人口統計上の要素(年齢、ジェンダー、収入、居住地、ライフスタイル)もまた、有意な説明変数であった。たとえば、男性は女性よりも懐疑的である傾向があり、若者よりも高齢者の方が懐疑的である傾向がある。また、世帯収入が75000以上の回答者は懐疑的である割合が有意に多い。都市部に住んでいる人よりも郊外・村落部にすんでいる人の方が懐疑的である傾向がある。これらの要素は環境観と政治的志向によって媒介されるとわかった。

重要なことに、回帰分析の結果は、回答者の教育歴や自己申告された気候変動に関する知識は懐疑度を有意に説明しないことをあきらかにした。つまり、市民の懐疑は教育や科学的知識よりも、個人の環境観や政治的志向(と間接的には年齢、ジェンダー、居住地、ライフスタイル)によってはるかに強く決定されている。これは政策決定者や専門家による従来の仮定の妥当性を減じる結果である。

このような結果は、心理学的には「動機づけられた推論」によって説明できる。ひとは、論理的な推論に先立って、無意識に、なんらかの目的を達成するように動機づけられている。このような推論を「動機づけられた推論 motivated reasoning」と呼ぶ。今回の場合、認知的不協和の解消が動機づけられた推論の要因になると考えられる。つまり、市民は政府や環境保護グループによる、確実性を強調したり終末論的な色彩の濃い言説を見聞きすることで、気候変動に対する行動の必要性に追い立てられるが、属する社会的グループによって、人々は実際の行動に対する非常に高い障壁を感じやすい場合がある。このディレンマによって起こる個人レベルでの認知的不協和を解消するため、人々は気候変動の実在性や深刻さを疑うように「動機づけられた推論」をしてしまうということだ。また、ひとは現在もっている考えや価値観やアイデンティティ追証するような証拠を認めやすく、それらに反するような証拠を認めにくい、という認知的なバイアスがあることも知られている。この確証バイアスも動機づけられた推論の要因であると考えられる。このバイアスはまた、(メディアへの不信感を除いた)市民の懐疑が全般的に時間に対して安定的であることを説明する。

市民の間の懐疑の時間的な変化をみると、気候変動の証拠への信頼感が低くなってきているにもかかわらず、気候変動を否定する割合は一定であるという事実がわかる。これは一見奇妙に思えるが、注意して見ると、気候変動の実在性への懐疑のかわりに、この問題の深刻さへの懐疑が低下している。これのような現象は「有限な心配のプール finite pool of worry」理論によって説明できる。人々の懸念の総和は有限であるらしく、注意を払うべきほかの社会問題が生じることによって、気候変動問題の深刻さの認識が相対的に低下してしまう、というものだ。

今回の研究結果は、気候変動問題への市民の参加促進への働きかけの方法について、示唆を与えうる。従来考えられていたほど、市民の気候変動問題の認識は科学知識の多寡に依存しておらず、むしろ個人がもともともつ価値観に強く規定されているようだ。したがって、この問題への市民参加を効果的に促すには、対象となる人の属するグループの価値観に沿った情報の提供の仕方を検討するのが有効であるだろうと著者は述べている。

### 

 

〈コメント〉

気候変動問題における市民理解(Public Understanding)研究の一つの流れは、Dan Kahanらの社会心理学的な研究に代表されるような、リスク認知の文化理論的説明にあるようだ*2。この研究も、大きくはこの流れの中に位置付けられると言えると思う。この論文の調査項目をフォーマット化して使用した後続の研究については、以前メモを公開しているので参考にしてください*3

ある科学技術(や広義には政策)への市民の理解や賛同は、それに関連する「真っ当な」科学知識を市民に与えれば与えるほど促進される、という仮定は、科学技術社会論では「欠如モデル」として概念化されている考え方で、市民を知識の「不足した」存在として一面的にとらえ、知識を注入さえすればよいという態度は批判の対象とされることがある。この論文は、気候変動問題における市民関与の欠如モデル的な見方の有効性に、心理学的なアプローチから反論するものだといえるかもしれない。もちろん統計的に有意だからと言って、結論が一般に適用可能とは限らないのだが。

いうまでもないが、認知的なバイアスや決定因子は絶対的なものではない。今回の研究で示された懐疑派の説明変数である諸因子を懐疑論のレッテル貼りの道具として使うことは生産的な議論を目指す際に適当な態度とは言えないだろうと私は思う(これはおそらく、著者もそうであると思う)。

この種の研究のSTS的な意義は、市民のなかの懐疑論を単に科学的素養の欠けた学問的に不誠実な態度であると決めつける見方を相対化し、お互いに有意義なコミュニケーションを実現する手法を検討するための示唆を得ることにあると、私は思う*4

 

[関連する文献のメモ]


*1:Climate Change Communication and Scepticism:http://psych.cf.ac.uk/understandingrisk/research/scepticism.html 

*2:ちなみに、先日の日本STS学会大会の気候変動リスク・セッションでは、この流れの一連の研究についてのサーベイ結果が報告されており、セッションを通じて、Kahanらの研究について言及されることが多かったという印象を受けた。

*3: 〈論文メモ〉Capstick and Pidgeon(2014)What is climate change scepticism? Examination of the concept using a mixed methods study of the UK public - read the atmosphere 

*4:とはいえ生産的な議論を実現するには、双方の実現への意思と努力が不可欠であると思う。この前提が共有できない場合には、対話の成立すら困難であることもあるかもしれない。