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気候変動と科学と社会

〈論文メモ〉Capstick and Pidgeon(2014)What is climate change scepticism? Examination of the concept using a mixed methods study of the UK public

  • Stuart Bryce Capstick, Nicholas Frank Pidgeon (2014) What is climate change scepticism? Examination of the concept using a mixed methods study of the UK public. Global Environmental Change, 24: 389–401

 

1. Introduction
  1.1. Background

  1.2. Conceptualisations and studies of climate change scepticism

  1.3. Roots of scepticism

  1.4. Aims of the study

 

2. Methodology and findings
  2.1. Use of mixed methodology to understand public scepticism

  2.2. Qualitative phase: procedure and data treatment

    2.2.1. Study participants and data gathering

    2.2.2. Data analysis

  2.3. Qualitative phase results

    2.3.1. Scientific/physical scepticism themes

    2.3.2. Social/behavioural scepticism themes

    2.3.3. Differences in content and function between scientific/physical and social/behavioural scepticism

  2.4. Quantitative phase: survey instrument design and procedure

    2.4.1. Respondent sample and survey administration

    2.4.2. Measures of climate change scepticism

    2.4.3. Measures of cultural worldviews

    2.4.4. Socio-demographics, pro-environmental identity, self-reported knowledge, self-identifying scepticism and climate change concern

  2.5. Survey analysis

    2.5.1. Principal components analysis of scepticism items

    2.5.2. Interpretation of the principal components analysis

      2.5.2.1. Factor 1: Response scepticisments

      2.5.2.2. Factor 2: Folk psychology scepticism.

      2.5.2.3. Factor 3: Epistemic scepticis

    2.5.3. Relationships between scepticism types, self-identifying scepticism and level of concern

    2.5.4. Determinants of scepticism types

  2.6. Summary and synthesis of findings from the qualitative and quantitative phases

 

3. Discussion

  3.1. Epistemic scepticism – characteristics and consequences

  3.2. Response scepticism – characteristics and consequences

  3.3. Underpinnings of climate scepticism

  3.4. Limitations of the study and further research

  3.5. Implications for public engagement with climate change

 

英国市民を対象に、気候変動に関する懐疑的な見方を調査した論文。

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・先行研究とこの論文の目的

気候変動に関する公衆の理解におけるある種の性質を示す傾向は気候変動懐疑論と呼ばれることが増えてきたが、この概念が示すものは必ずしも明瞭ではない。公衆の懐疑的理解に関する考察はこれまでにもなされてきており、懐疑論に関する最初期の検討では、懐疑論をつぎの3つに分類している。

  • 気候変動のトレンド:温暖化*1は実際に起こっているのか
  • 気候変動の原因:温暖化の原因は人間の活動(温室効果ガスの排出など)なのか
  • 気候変動の影響:温暖化のもたらす影響は社会にとって不利益となるものなのか

これらは気候変動の科学的側面に関する懐疑的な見方としてまとめられている。

他方で、先行研究のなかには、気候変動に対する社会的・政治的・個人的な対応に関する懐疑的なみかたの存在を指摘しているものもある。つまり、気候変動に関して、社会的あるいは個人的な対応が本当に必要なのか、効果はあるのか、などのようなことについての懐疑的な見方がある。

さらに最近の研究では、

  • 気候科学の実践そのものに対する懐疑的なみかた(科学者によるねつ造や利益相反、コンセンサスの有無など)
  • 気候変動問題に関するマスメディアの扱い方(誇張や脅迫的な報道姿勢など)
  • 気候変動とほかの社会問題との相対的な重要度への懐疑

なども指摘されている。このように懐疑的みかた、あるいは懐疑論とよばれる言説にもさまざまなものが含まれており、単純なラベルやレッテルでとらえることは本質的な問題を見過ごすことにつながる可能性を指摘する声もある。また従来の分類は概念的なものであることが多く、かならずしも経験的な基盤を持つものではなかった。そこで著者らはこれらの公衆の理解における懐疑的な視方について、質的・量的な調査を組み合わせることで、エビデンスに基づく分類わけを試みた。

 

また、これまでの研究は、気候変動の科学的側面に対する人々の認識には社会文化的・心理的な決定因子が存在することを示唆している。多くの研究は、ひとびとのもつ文化的な世界観が気候変動への認識に大きく影響を与えていることを示している。しかしながら先行研究では、雑多な懐疑論を経験的な分類わけをすることなく研究がなされていたため、著者らは懐疑論のタイプを区別したうえで認識に影響を与える因子を特定することにした。

 

・著者たちの結論

まず、英国市民を対象にしたグループディスカッションを用いた質的調査とアンケート結果のを用いた量的調査を組み合わせて、エビデンスに基づく経験的な懐疑論の分類わけを行った。グループディスカッション中の自由な発言を記録したものを主題分析した結果に、アンケート結果を主成分分析して得られた結果を組み合わせて、懐疑論のタイプを特定した。

結果として、著者たちは懐疑論をつぎの二つに分類した。

 

認識に関する懐疑

  • 先行研究は気候変動懐疑論を物理的実在、人為性、気候変動の深刻さについての公衆の疑いの点から考えてきた
  • 今回の研究は先行研究の用いた分類との一貫性を確認したうえで、これらに加えて、証拠、コンセンサスのレベル、気候科学の実践のような気候科学と科学者に関する懐疑論が関係している傾向があることを経験的に明らかにし、従来の分類を概念的に拡張して認識に関する懐疑として分類した
  • このタイプの懐疑論には、市民の科学観(科学は確実な知識をもたらすものであり、充分な経験的事実に基づいている必要がある)と自然観(自然には自己調整機能があり、気候は変動するものだ)が関係していることが示唆される

 

対応に関する懐疑

  • 個人的、政治的、社会的レベルにおける気候変動への対応の効果、実行可能性に関する懐疑が特定された
  • 個人的なレベルでは、個人の行動が対策に効果を持たないという懐疑的見方がある
  • 政治的なレベルでは、市民のなかに気候変動に関して何かできる政治家が非常に少ないという見方に対する同意がみられた。このような気候変動への政治的対応に対する懐疑論は近年の政治とのつながりのなさの反映であると考えられ、また時間を通して気候変動の政治化が増加していることの結果であるようだ
  • 運命論的みかたも対応に関する懐疑論に特徴的である。これは、気候変動へのいずれの行動もすでに手遅れであるという考えである。気候変動をめぐるこのような運命論的感覚は市民参加の不足とのかかわりが指摘されている
  • 対応への懐疑論は、認識に関する懐疑論よりも気候変動への関心の欠如とより強く関係していることがわかった

 

これらの分類わけを用いて、人々の気候変動の認識の決定因子について、量的調査によるデータをもとに考察した。 

懐疑論の基盤になっているもの

  • 先行研究は、気候変動の科学的側面の認識に文化的な世界観が影響を与えていることを示めしているが、今回の研究はこのような世界観が気候変動の社会的・行動的な側面に関する懐疑論とも関係していることを示唆する
  • 文化的世界観はひとびとのもつ価値観を規定し、リスク認識に影響を与えることで、対応への懐疑的みかたに寄与していると考えられる
  • 対応に関する懐疑は認識に関する懐疑的なみかたをかならずしも前提としない。世界観に則した対応への懐疑的なみかたが、気候変動の科学的な認識への懐疑的なみかたへ影響をあたえている可能性がある。
  • 文化理論の観点からは、対応への懐疑論個人主義的な世界観によって基礎づけられていることが回帰分析の結果から示唆される

 

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〈コメント〉

気候変動懐疑論に関する研究。

 今回の研究によれば、気候変動の懐疑論には2つのタイプが特定された。著者らはそれぞれ認識に関する懐疑論 epistemic scepticism と対応に関する懐疑論 response scepticism と呼ぶ。前者は気候変動に関する科学的認識そのものに関する懐疑で、後者は気候変動への人類の対応(行動、緩和策や適応策など)に関する懐疑を指す。

この研究の肝はこの2つの分類を気候変動に対する市民の理解のなかから、経験的に見出した点にある。市井の懐疑論は煩雑に込み入っているので、体系的な整理は建設的な議論の役に立つかもしれない。

この論文の知見に関して注意すべきは、あくまでも英国市民の気候変動への理解・認識から抽出されたものであるということ。大きな枠組みはあまり変わらないかもしれないが、各論では地域性を考慮すべきだろう。また、この研究のためのデータ取得の時期は2010年1-3月にかけてだ。関心のある向きにはなじみがあるかもしれないが、このすこしまえにCOP15が開かれ、その前にメールハッキング事件が世間を騒がせた時期である。当然、この影響はあるとみるべきだろう。時期性も考慮した方がよさそうだ。

既に述べたように、この研究は大きく見れば気候変動の公衆理解(Public understanding of climate change)の調査の一環であるようで、いわゆる懐疑論の発信元としての専門的な権威を持つ「懐疑論者(組織的な場合もある)」*2の主張や立場を体系的に整理したものではないので注意が必要かもしれない(おもに自分用の戒め)。

 気候変動問題を特徴づけているのは一面ではこのような根強い懐疑論の存在かもしれない。気候変動に関する懐疑論の研究に先行論文が何本もあることから、この分野にも関心が向けられていることが推測できる。

ぼく個人は一般のひとびと(専門家でないぼく自身も当然含む)の間の懐疑的視点は一概に「問題のある」ことだとは思っていない*3。むしろ重要だと思うのは懐疑的視点の土台にあるひとびとの気候変動への認識の仕方のほうで、この論文のような研究は気候変動問題に関する社会的意思決定とそのために必要な市民をふくめたコミュニケーションの構築に寄与できるのではないかと思う。

*1:このメモでは原則として温暖化と気候変動という言葉を区別なく用います。これは気候変動という言葉で統一した場合、気候システムの本来的な変動性によるいわゆる自然変動的な気候変動と区別がつきにくいと判断したためです。

*2:海外の事情にはあまり通じていないが、米国では気宇変動に関する科学的な知見を否定することを明確な目標とした利害関係を持つ科学者あるいは研究組織があるらしい。あだ少なくとも日本では非「専門家」[ここではアカデミックな肩書を持たない人というくらいの意味]の間のネットワークは弱く、組織的な懐疑論的言説は確認できないと思う。むしろ市民の懐疑的認識への影響力としては懐疑論者である「専門家」個人の言説が大きいのではないかという気がしている(ぼくの主観的判断です)。

*3:ただし専門家[ここでは気候変動に関わる専門知識を持つ研究者を想定]ではない人の参加に期待される役割は専門家のそれとは異なるのではないかとは思う。事実判断と価値判断を区別することは現実的には難しいが、非専門家は専門家の提示する情報のなかに専門家(個人あるいは専門家集団)自身では気づきにくい価値判断とそれに起因する不確実性(deep uncertainty)が内在している点について指摘し、これについて専門家と対話できることが望ましいと思う。もちろんこれは専門家でない人が「事実」については口を出すべきでないということではない。