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気候変動と科学と社会

〈書籍メモ〉Christie(2001)The Ozone Layer[Chapter4]

  • Maureen Christie (2001) Chapter 4 The Supersonic Transport (SST) debate. "The Ozone Layer: A Philosophy of Science Perspective". Cambridge University Press. Cambridge. pp.23-28

 

4章はふたたび成層圏オゾン科学の研究の歴史。といっても話の軸になるのはSST論争で、くわしい研究の歴史というよりは、論争がいかにして生まれ、どのように減衰していったかということが主な主題だ。

人類による成層圏飛行は第2時大戦後すぐに始められた。公式に認知されるようになったのは1955年のことだ。1962年までには商業化に向けた具体的な話が可能になるほど技術レベルが向上した。商業的な超音速旅客機計画はさいしょにイギリスとフランスの共同事業として計画され、アメリカ、ソ連が続いた。発足からすぐに、SST計画にはデザイン上の工学的な課題と、商業的なコストの問題が生じた。そんなわけで計画はゆっくりとすすんでいったが、徐々に市民の環境に対する意識も高まっていき、2つの懸念が生まれた。もっとも重要とみなされたのは、SSTによるソニックブームの問題だった。この問題のためにSSTは地上では亜音速飛行を強いられることになった。また思わぬようなさまざまなところから懸念が表明された。たとえば牧場の牛に悪影響があるのではないかとか、海上の岩礁に生息している鳥たちの卵が割れる可能性があるのではないかという話も出たらしい。ソニックブーム問題よりも認知度は低かったが、成層圏という安定した大気層にSSTの排気がどのような影響を与えるのかという観点からの懸念も生じた。こうした問題意識はアメリカのCIAPにつながった。この研究計画の成果や、商業的な採算の問題から、アメリカでのSST計画は大きく縮小を迫られることになった。
SSTの排気による環境影響として最初に懸念が提起されたのは、気候への影響だった。これは1960年代後半に出現したもので、本来非常に乾燥して水蒸気の少ない成層圏に排気として水蒸気が注入されると、凝結して氷の結晶になって成層圏エアロゾルが増えることで太陽放射の反射率が上がり、気候が寒冷化するのではないかというものだった。もうひとつの懸念は排気中の水によるオゾンへの化学的な影響で、Harrisonは1970年にこうした懸念を提起した。彼のモデルは成層圏への水蒸気の注入はオゾンの破壊をもたらすと計算した。

1960年代の間、成層圏オゾン化学の研究はChapmanのモデルの改良として進んだ。Huntは、Hampsonの水蒸気がオゾン化学に重要な役割を果たしているという示唆に基づいて、モデルを立てた。これはChapmanモデルに、ヒドロキシラジカルと過酸化水素ラジカルのサイクルを加えたものだった。LeovyはHuntのモデルを単純化してモデル計算を行い、注意深く反応定数を決めることで成層圏での実測のオゾン分布とうまく一致した結果を得た。ただしこの定数の決め方には問題が残っていた。Hunt−Leovyメカニズムは成層圏オゾン化学において低濃度であっても水蒸気の存在が重要であることを示していた。1960年代の終わりになって、いくつかの重要な反応速度定数が正確に求められた。こうした数値を用いて計算すると、Hunt−Leovyメカニズムを加えたChapmanモデルでは成層圏オゾンの量を十分説明できないということがわかった。

Johnstonは1971年に排気中の窒素酸化物が成層圏オゾン化学に重要な寄与を果たしている可能性を示唆した。窒素酸化物による反応についてはこの当時すでに多くの研究の蓄積があったが、こうした結果は大気中の反応については見過ごされていた。1970年にCrutzenは成層圏化学における窒素酸化物の役割に関する研究を発表しており、JohnstonはCrutzenの仕事を元にモデル計算を行ったのだった。窒素酸化物は触媒として連鎖反応的にオゾンを破壊する。政治学者Clarkは1974年に科学の専門家の助言が公共政策にあたえる役割を明らかにする上で、こうしたオゾン層研究がいい例になると言っているらしい。引用されている彼の文章によれば、1970年のSCEPは(必ずしも成層圏にのみ主眼を置いていたわけではなかったので)成層圏にあまりなじみのない化学者や気象学者が呼ばれて話し合い、成層圏オゾンへの窒素酸化物の影響は無視できると結論した。しかしこうして専門家コミュニティの中でこの問題の認知度が高まることによって、本当にこの問題に取り組む能力を持つ専門家が関心を持つようになり、1971年のSMICでは専門家が注意深く選ばれ、議論はSST成層圏オゾンに対する危険因子であるという結論を得た。

さて、こうした窒素酸化物のオゾンへの寄与の大きさに関してはGoldsmithらによって1973年に出た論文で批判を受けている。というのも、1957年から1963年にかけて世界中で大気圏内核実験が行われた。これはかなりたくさんの窒素酸化物を成層圏中に注入したはずだが、成層圏オゾンの観測の結果はこうした核実験と成層圏オゾン量の間に相関がないことを示していた。であれば、核実験よりはるかに注入する量の小さいSSTのオゾンへの影響も大きくないのではないかというものだ。
1974〜75年にかけて、人為的な窒素酸化物が成層圏での影響が限られている理由は、それまで仮定されていたよりも、成層圏下層での天然の窒素酸化物が多く存在していたためだということがわかった。1960年代後半、Crutzenは成層圏中の天然の窒素酸化物の起源について調べていた。そして生物由来の一酸化二窒素が成層圏での窒素酸化物になるのだろうと示した。Johnstonはこれに基づいて、1980年台までのSSTによる成層圏オゾンへの影響の予測を試算した。

現在の理解では、成層圏での奇数酸素分子の除去に寄与するのは、NOxサイクルが60%、Chapmanメカニズムが20%、それ以外のメカニズムが20%ということになっている。それ以外のメカニズムにはHunt−Leovyメカニズムや塩素サイクルが含まれている。したがって、成層圏への窒素酸化物の注入によるオゾンへの影響はJohnstonが予測したよりは小さかった。
SST論争が衰退した他の要素は、SSTの商業化の規模が初期の予定に比べて大幅に縮小されたことだった。こうして、結果としてはかなりつまらない結論にはなったものの、SST論争は科学者、実務者、そして一般市民が成層圏オゾンのデリケートな性質を知る上で大きなきっかけになった。これはまた、成層圏オゾン研究への大きな刺激になり、Chapmanモデルと実測との不一致という問題の解決へ科学者を誘導することになった。

そんなわけでこの章はSST論争の歴史みたいなものだけど、ぼくはどちらかというと理論史をもうすこし丁寧に追いかけてほしかったな。とくにNOxの寄与が小さいとわかったところなんかはもうすこし説明がほしかった。

〈書籍メモ〉Christie(2001)The Ozone Layer[Chapter3]

 

  • Maureen Christie (2001) Chapter 3 Chlorinated fluorocarbons. "The Ozone Layer: A Philosophy of Science Perspective". Cambridge University Press. Cambridge. pp.17-22.

 

3章はフロンの発明について。この話は詳しくは知らなかったけど、エピソードとしてはかなり面白い。

まず、冷蔵庫の冷媒としてどんなものが求められているかの話。まとめると沸点が-50度から0度であること、毒性がないこと、引火性がないこと。アンモニアは冷媒としてかなり使われていた。毒性はあるけれども、利点もあった。ふたつある。ひとつは刺激臭があるのでもれるとすぐ気付くことができる。もうひとつは水溶性が高いこと。漏れても水をかけると溶けて処理できる。アンモニアは腐食性がかなり小さい。引火性はないが、ある条件では爆発する可能性もある。二酸化硫黄は毒性、刺激臭、水への溶解性という点でアンモニアに似ていた。引火性はほぼないが、アンモニアより腐食性が強い。クロロメタンやブロモメタンはアンモニアよりも毒性は低いけど、においもしないし水にも溶けない。二酸化炭素は毒性はないし、引火しないし、腐食性も小さい。でも沸点が-78度なので気体だし、冷やすとドライアイスになってしまう。液体にするには圧力かけたりしないといけないのでコストがかかる。ブタンやプロパンは引火性があるし。そんなわけで冷媒として理想的な化学物質の研究がさかんだった。
GMの研究者だったミジリーがCFCを発明したのにはふたつのセレンディピティがあった。ひとつはフッ素化合物の融点をミスプリントしてある文献を読んだこと。本当は-128度なのに-15度と書いてあった。間違えて書かれてなかったらフッ素化合物なんて研究しようと思わなかった。もうひとつは、フッ素化合物を合成して動物実験をしたら「たまたま」死ななかったこと。もともとフッ素化合物が猛毒だというのは常識だった。でもミジリーはすべてがそうではないんじゃないかと考えてある試薬瓶の試薬を使って試してみた。で、成功した。おっと思う。でも次にほかの瓶からつくったやつはだめだめだった。これがだめだった理由は不純物がホスゲンになって、これによってモルモット[guinea pig]さんが死んでしまったということがわかった。つまり、合成したフッ素化合物は無罪だったということだ。でも最初にモルモットさんが死んでいたら早合点して諦めてただろうとのこと。それにしても動物実験ってこの時代は普通にされてたのか。いまはだいぶ厳しくなっているんじゃないだろうか。続く安全試験で不思議な結果が得られた。CFCをすわせた後普通の空気を吸わせると回復するが、すわせないと死んでしまう。けっきょくこれはCFCの毒性じゃなくて単純に酸素が足りなくて酸欠で死んでいたことがわかった。当時は現在ほど厳密な試験体制ではなかったので、酸素じゃなくて普通の空気を混ぜて試験をしていたのだ。ミズリーが合成した化合物は、冷媒としての性能に加え、無害で、引火性がなく、化学的に安定で反応せず、腐食性もない、夢のような物質だった。さらに素晴らしいことに、工業的な生産コストは経済的に理想的だった。この化合物はFreonと名付けられ、市場に出された。その性能は冷媒だけでなく、スプレー缶や洗浄剤など、いろいろな分野で輝かしい活躍を見せた。
ミズリーがフロンの二大特性、つまり安全性と非引火性を市民にどうアピールするかという方法がウィットに富んでて面白い。彼はフロンを自分で吸い込み、ローソクの炎に息として吹きかけて見せたという。ははは。これ今やったら叩かれそうだなあ。
1970年代、世間の環境意識が高まり、化学物質の使用にたいする制限がきつくなってきた。殺虫剤として一時期広く使われたDDTは、マラリアを根絶し、害虫を駆除して飢饉を防ぐことでかなりの貢献を果たしたが、いっぽうで広く環境中に拡散し、食物連鎖のなかで生物濃縮が問題になっていた。フロンもまた環境中にたまりつつあったけど、DDTとの最大の違いはこの物質が極めて無害で反応しないという点にあった。

 

〈書籍メモ〉Christie(2001)The Ozone Layer[Chapter1 & Chapter2]

  • Maureen Christie (2001) Chapter 1 Introduction. "The Ozone Layer: A Philosophy of Science Perspective". Cambridge University Press. Cambridge. pp.1-7.
  • Maureen Christie (2001) Chapter 2 Stratospheric ozone before 1960. "The Ozone Layer: A Philosophy of Science Perspective". Cambridge University Press. Cambridge. pp.9-16.

 

第1章はイントロダクション。著者は科学哲学のケーススタディとして成層圏オゾン層研究を使いたいみたい。科学哲学が現代の個別科学が実際にやっていることをちゃんと見られていないのではという指摘はときどき目にするところだけど、この本の問題意識もこのへんにあるのかな。著者は、「なにが良い科学か」という規範的な基準を科学哲学の中心に考えていて、科学史や科学社会学が科学がいかようであるか(how)を語るのに対し、科学哲学は、科学がどうあるべきかという処方を科学者に与えるものだと考えている。ただ、実際の個別科学の営みを精査しないといけないことには有用な規範は提出できないので、著者はこの本のアプローチとしてはむしろ処方的というよりは記述的だと語っている。とはいえ、なにが良い科学かという規範的言明を科学哲学のアプローチを使ってやってやろうと考えている点で、この本は科学哲学の本なのだ。著者の主な着目点は、オゾン層研究コミュニティの中でなにが証拠とみなされ、それがどのように正当化されたのかという点にある。古典的な論理的整合性や物理現象の説明能力だけでなく、その時代の社会背景や政策的文脈、研究予算獲得の状況などが科学の妥当性画定に影響を与えていると考えている点ではSTSっぽさを感じるところでもあった。

第2章は1960年以前の成層圏オゾン研究の歴史について。まずはオゾンの性質の説明と1837年のシェーンバインによるオゾンの発見から。とはいえこの話はこれで終わり。むかしはオゾンは健康にいい空気だと思われていたらしく、このことについては以前から気になっているのだが、まあこの本の主題は成層圏オゾンだから当然そんな話はない。1879年にコルヌー、1880年にハートレーによって大気上層にオゾンがある事が発見される。地上での太陽スペクトルのある波長域が欠けていて、上空のオゾンによる吸収のためと推測したのだ。その後ファブリとブイソンによって、1912年にカラムの全量が見積もられた。のちの1921年のファブリとブイソンの仕事はオゾン全量を地上換算すると3mmの量であることを定量化した。これは今では300ドブソンユニットと呼ばれる量で、現代の測定から見てもかなり正確な結果だった。またこのとき彼らはオゾン量の日内変動、および日-日変動を見つけた。1924年のドブソンとハリソンの測定から、オゾン量は春は増え、秋に減ることがわかった。また、気圧が低いとオゾン量は少ないこともわかった。こうした日々の気象状況とオゾン量との関係が見出されたことは、オゾン量観測と気象予報が結びつく可能性の認識をもたらしたらしい。この辺は知らなかったが、興味深い。オゾン量の観測から近い将来の気圧変化を予測できるかもという話かな?オゾンカラムの変動がわかった事でオゾン観測が広まった。観測ネットワークが最初は欧州で1926年にOxford, Shetland Islands, Ireland, Germany, Sweden,Switzerland,そしてChileで、1928年にはインド、ニュージーランドにまで広がった。こうした観測によって、オゾンの季節変動や気圧配置との関係が広く認識されるようになる。このあとは1928年から1956年までにわかったことが列挙されている。

観測ネットワークの広がりという点で、これにつづいたのは1957年から始まったIGY(国際地球観測年)だった。成層圏オゾンの観測はIGYでも興味あるトピックであり、世界各地に観測基地が設けられた。しかしながらこうした観測基地の多くはその後数年で観測をやめてしまった。IGYははじめて南極でオゾン観測がなされたという意味で重要だった。南極のオゾンの挙動は他のどの地点とも異なっており、研究者の興味を引いた。ふつう秋に極小を迎え春の極大に向けてだんだんオゾン量が増えていくのに対し、南極では冬から春の初めにかけて秋のレベルのまま推移した。そして春になると劇的に増加し、夏にかけてゆっくり減衰していった。こうした奇妙な挙動はドブソンによって「南方アノマリー」と呼ばれた。いっぽう、どうしてオゾンが成層圏にあるのかということや、地域による大気組成のちがいの定量的な理解には、気象学や大気物理学が取り組んでいた大気大循環の知見だけでなく、大気化学が必要だった。成功した理論を立てたのはチャップマンで、1930年の仕事だった。チャップマンのモデルでは成層圏オゾンのピークが成層圏の上部でも下部でもなく20kmあたりにくることを説明できた。チャップマンのモデルは1970年くらいまでの長い間代替的なモデルに取って代わられることはなかった。それ自体効果的な理論ではあったのだが、より精密なデータが使えるようになると、成層圏上部のオゾン量がモデルと実測で2倍ほども食い違うということがわかってきた。定式化した反応式のなかで重要なパラメータである反応速度定数のうち、いくつかは実験室的測定によりかなり確実に確定できた。この理由はオゾンの解離定数に寄与する評価されていない未知の反応があるためだろうと推測された。

ここで著者はこの話を科学者による科学理論の取り扱いの話に一般化させている。科学者は、ある理論が定性的にはうまくいくのに定量的にはうまくいかないという状況に直面した場合、ふつうその理論を棄却するのではなく、修正しようと考えるという。この場合も、科学者はチャップマンの理論を捨て去るのではなく、修正すればいいと考えた。ところが、おもしろいことに、1960年に注目すべき研究がでるまでは、積極的にこのモデルの改良をしようという動きは起こらなかった。著者はこのチャップマンモデルの長命の理由を、当時の成層圏オゾン研究の主流は大気物理学であり、大気化学は大気化学で対流圏の大気汚染の問題に夢中だったからだろうと考えている。うーん、そうだろうか。そもそもチャップマン自身地球物理学の人間だし、この時期の成層圏オゾンの大気化学を担っていたのはいわゆる大気化学プロパーではなかったんじゃないのかなあ。それと気になったのはIGYのオゾン観測事業にチャップマンがどうかかわったのかということ。たしかチャップマンはIGYの推進者の一人だったはずだけど、彼はどんなふうにかかわってたんだろうか。そういう話はなかった。