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気候変動と科学と社会

〈論文メモ〉木村 学(2011)回顧 地球科学革命の世紀

先日某理工学図書館へ行ったら、年末が近いからか東京大学出版会が出している『UP』という雑誌が配られていた。そのうちの2011年4月号は東大教師のおすすめ本が載っていたのでぜひ持ち帰ろうと思ったのだが、よく見ると「地球科学革命の世紀」という論稿が載っていたので早速読んだ。

論旨は、世界では1960年代にプレートテクトニクスによる地球科学革命が起こったのに日本の科学コミュニティで受容されたのは1980年代であり、20年のタイムラグがある。これはなぜかというと、日本が明治時代に欧米から輸入した地質学はその後戦後まで旧態依然とした体制を維持し続けていたことと、戦後、地球物理学が物理学から分枝して発展したが大学の組織再編がうまく機能せず、地質学との相互作用が十分でなかったためであろうというものだ。プレートテクトニクス論争は世界的には1960年代後半におこったらしい。1960年代はちょうど大学闘争の時代に重なり、またクーンの『科学革命の構造』がはやった時期にあたる。

日本に地質学が輸入されたのは明治時代、東京大学地質学教室のナウマン教授ルートと、北海道開拓使が雇ったライマンというアメリカ人のルートの二つがあった。ナウマン教授は当時まだ20歳くらいだったらしい。そういえば以前岩波の新書で、東大のお雇い外国人のうち少なからずの人が大学出たくらいのかなり若い人だったという話を読んだことがある。

欧米の地質学はその後、ディシプリン内部で物理学や化学の手法(放射性同位体年代測定とか)を積極的に取り入れて過去の殻を自ら破ることを試みた。こうした動きが地球科学革命の背景にあった。僕は知らなかったが、驚いたのはこれらが地質学内部からの動きだったということだ。しかもその理論的支柱はライエルの「地質学原理」だったという。なんかピンとこない。いっぽうの日本の地質学はというと、もともと明治時代に輸入された地質学は欧米の植民地政策のための地質データ収集がおもだったので、その流れをくむ日本の地質学の研究室は日本各地にできたものの、日本の地質データ収集に注力し、その先、つまり地球全体という視点からの俯瞰とかメカニズムの考察みたいな(地球物理学のそれのような)方向には進まなかった。

地球科学への動きは、日本の場合には物理学の流れをくむ地球物理学から生じてきたのだが、地質学コミュニティとの溝はあったようだ。戦後地方の旧制高校は大学に格上げされ、全国に新たに国立大学が作られたことで地質学教室は日本各地にできたのだが、その体制は以前のままだった。結局日本でプレートテクトニクスが受容されたのは1980年代初頭、大学での研究教育体制が革新されたのは1990年代の大学改革まで待たなくてはならなかったという。遅れた受容史の特徴として放散虫革命が地質学内部で起こったことと、年代測定法も日本には独自の発展があったことだそうだ。

 

〈コメント〉

陸と海*1を含んだプレートテクトニクス理論などによる地球科学革命は1960年代末に起こったそうだ。これはおもに固体地球科学での話だと思う。で、流体地球科学(こういう言い方するのかな)を含む地球科学全体の統合(地球科学以外のディシプリンをも含む形で)が1980年代の地球システム科学概念の出現ということになるのではと僕は思うのだが、これは「地球科学革命」と同じ意味で方法論的、あるいは認識論的なレベルでの「革命」といえるのだろうか。地球システム科学は研究資金獲得や国際研究プログラム立ち上げのための名目上の再編で、実質的な方法論や認識論の革新などはなかったのだろうか(もちろんシステムという考え方を取り入れたというが大きなものだと思うけど)。これに関連して、先行した固体地球科学革命がそのほかの流体地球科学研究にどんなインパクトをあたえたのか(あるいは与えなかったのか)という点に興味を持った。

*1:海底であって、海洋ではない、と書くべきかな

〈論文メモ〉Lahsen(1998)Theory and Methods: Framework, Difficulties, and Strategies of this study [CHAPTER 1]

  • Myanna H. Lahsen (1998) CHAPTER 1. Theory and Methods -- Framework. Difficulties, and Strategies of this study . "Climate Rhetoric: Constructions of Climate Science in the Age of Environmentalism", PhD dissertation, Rice University, pp. 23-75.

 

NEW ENVIRONMENTAL PROBLEMS AND THE STUDY OF SCIENTISTS
  THE POLITICIZATION OF SCIENCE
  INFLUENCES ON CONCERN ABOUT HUMAN-INDUCED CLIMATE CHANGE
A DISPERSED "COMMUNITY"? RECONCEPTUALIZING SOCIAL FORMATIONS WITH GLOBALIZATION.
DIVIDING UP THE CAMPS
  SKEPTICS, CONTRARIANS, AND THE SCIENTIFIC MAINSTREAM DEFINED
  HAWKS, OWLS AND DOVES
CONTESTED CULTURE, COMPLICATED FIELD-SITES: ANTHROPOLOGICAL STUDIES OF SCIENCE
PROBLEMS AND DYNAMICS OF "STUDYING UP"
  FROM "PRIMmVE TRIBES" TO ELITE SCIENTISTS: WHY ANTHROPOLOGY NOW STUDIES SCIENTISTS
  THE DYNAMICS OF A SOCIAL SCIENTIST GRADUATE STUDENT STUDYING PHYSICAL SCIENTISTS
  METHODOLOGICAL PROBLEMS AND IMPLICATIONS OF STUDYING UP
  THE THREAT OF LIBEL SUITS
THE MERITS OF A DISCURSIVE APPROACH
DISCOURSE COALUSIONS

 

Lahsenの博論の1章。理論的背景と方法論のお話。最初はコミュニティとか、メインストリームとか、コントラリアンと懐疑派とか、そういう分析の基本になる概念の定義の話。タカ派ハト派、フクロウ派みたいな分類ははじめて知った。こういう懐疑論の分類の議論とかは、その批判的検討も含めていずれブログでまとめておきたいなあと思う。そのあとは人類学のトレンドとか。むかしは発展途上の地域の研究が盛んだったけど、最近はおもに研究する側、つまり先進国自身の研究も重要という認識が育ってきたそうだ。あとは著者がNCARでフィールドワークをする中でいかにして信頼を得るかについての話。このへんはかなりおもしろい。人類学者としてはジャーナリストと違って、インフォーマントにいかになじんでそのままの姿を観察できるかが大事なわけで、そのためにはプロの研究者に信頼されないといけない。紹介者の存在や研究身分の保証、あるいはNCARの奨学プログラムを受けている、ということが信頼性につながっていた、というのはなかなか赤裸々で刺激的な話だった。最後はフーコーの思想史の考え方を援用するよ、みたいな話が続いた。

〈論文メモ〉Lahsen(1998)Some Important Points in the Story of the Development of Climate Change Research and Concern [CHAPTER 3]

  • Myanna H. Lahsen (1998) CHAPTER 3. Some Important Points in the Story of the Development of Climate Change Research and Concern. "Climate Rhetoric: Constructions of Climate Science in the Age of Environmentalism", PhD dissertation, Rice University, pp.116-149.

 

EARLY SCIENTIFIC WORK ON CO2 AND ITS EFFECT ON CLIMATE
NEW FINDINGS AND THE IGY ADVANCE CLIMATE STUDIES
  NEW RESEARCH ANDINGS: HUMANS ARE CONDUCTING A GRAND GEOPHYSICAL EXPERIMENT ON THE GLOBAL CLIMATE
  THE IGY: THE DEVELOPMENT OF AN INFRASTRUCTURE FOR IMPROVED CLIMATE STUDY
  KEELING'S CURVE COINCIDES WITH ARST GCM STUDY OF CO2 X 2
  MID-70s: CIA AND GLOBAL COOLING
PARADIGM SHIFT: FROM WEATHER MODIFICATION AND GEOENGINEERING TO ENVIRONMENTAL PROTECTION
  SCEP AND SMIC
  CALLS FOR ACTION
THE BACKLASH

 

Lahsenの博論の3章。主題は気候変動への関心の発達で、歴史的に追いかけている。関心の「主体」はいろいろ。科学者、科学者コミュニティ、市民、政治家、環境運動家など。

気候変動への関心の基盤となるのが「人間は地球環境を変えることができるのか」という問題というか認識だ。素朴にできないというのがかつての主流の認識だった。Fourier、Tyndallときて、Arrheniusが1896年に二酸化炭素を2倍に増やした時の地表気温への影響を定量的に見積もることを試みた。その後の1912年、Arrheniusは人間の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出が地球の気候をいずれもっと暖かくしてくれるだろうと結論した。とはいえ当時は二酸化炭素はほとんど海洋に吸収されると考えられていたのでArrheniusの説を現実的に検討する人はほとんどいなかった。その例外が英国の技術者Guy Callenderで、彼はArrheniusの説を支持する新たな証拠を提示した。さて、科学者の中で二酸化炭素のグローバルな気候への影響という問題はそれなりに興味の対象ではあって、それはもっぱら未来予測という意味ではなく、過去の気候変化を調べるという意識がそこにあったのだけど、Suessは放射性同位体を使った研究で大気中の二酸化炭素が海洋中にあまり吸収されてないことをRoger Revelleと一緒に発表した。海洋への二酸化炭素の吸収の問題は海洋学にとっても興味ある問題の一つだったのだ。

当時はまだ「警告」というより科学者の興味に駆動された研究であったが、発表された当時はIGYが計画されており、この計画の主導者の一人でもあったRevelleによって、世界各地で二酸化炭素関係の研究が始まった。マウナロアでのKeelingの測定もこのとき始まったものだ。IGYは時代としては人工衛星黎明期にちょうど位置する。IGYのアイコンには人工衛星が使われていた(実際にはまだ衛星軌道に到達する最中だったらしい)。とにかくIGYは地球規模での科学研究を大きく前進させる契機になった。冷戦期にあった当時、IGYは国際協力にとって政治的対立のない中立的な領域としても期待されていた。1961年、ケネディ大統領は国連演説で*1地球規模の観測の必要性を宣言し、気象予測に関する研究プログラムを立ち上げた。気候コントロールをも視野に入れていたそうだ。米国において、政府レベルで気候への人間活動のインパクトに関する認識が得られた契機になったのは1965年に大統領科学助言委員会が出した”Quality of Our Environment”という報告書だった。気候は複雑で予測は難しいというのが当時の科学者の見解だった。気象予測は1970年代後半まで優先的に扱われていたが、気候の予測も当初不可能と思われていたものが、だんだんそうは思われなくなってきた。WMOはWWW(地球気象監視計画)をはじめた。得られたグローバルなデータセットはそれを必要とするGCMの開発と発展に貢献した。このような技術的・組織的発展は1970年代に生じた気候変動への科学的・環境保護思想的な関心の基礎を提供することになる。とくにコンピュータの発展は重要だった。WWWやGARPのような国際研究は気候の科学的な知見を前進させた。1967年までに米国の科学研究への予算は大幅に増加し、基礎研究への支援体制は「科学の黄金期」とよばれるほどだった。こんな時期にあっても、1960年代から70年代における気候モデリング分野の優先度は高くなかったので、気候モデリングの研究者は資金獲得に奮闘しなければならなかった。気候モデリングと気象予測の研究者は互いに、予算をめぐって競争していたし、ほかのスーパーコンピュータを使う分野と研究資源(つまり大型電子計算機環境)をめぐって競争していた。このほかの分野というのは核物理のようなところも含まれていたが、気候の短期的な安定性への関心が育つまで、気候モデリングの優先度は軍事研究や気象予測に比べると低いままだった。

1970年代中ごろまでに、アメリカは食糧輸出の大国であり、食糧は外交的にかなり重要だった。食糧生産との関係で気候変動への関心が高まり、CIAはNCAR(国立大気研究センター)に情報を要請した。その際の主な焦点は温暖化ではなく、むしろ寒冷化のほうだった。研究者の中には人間の排出する大気汚染物質が地球を寒冷化する可能性を指摘していた人もいたし、市民の間でも寒冷化への懸念が一般的になっていた。当時は環境思想がまだ現在ほど一般的でなかった時代で、科学技術は自然を自由に変えることができるとみなされていたし、人間は気候を目的に応じて改変することができるという前提があった。たとえば極地の氷を解かすための方策についての研究もおこなわれた。この時期、人工降雨研究にも多くの資金がつきこまれた。1970年代、環境保護思想が支持を受け始める。この時期、科学者も人間活動の気候へのインパクトについて市民へ声を上げ始めた。「成長の限界」は気候モデリングに大きな影響を与えた。この研究は環境保護運動自体にも顕著な影響を与えている。「汚染」パラダイムから問題のグローバルな認識へのシフトがおこった。1980年代以前には環境問題は地域的な問題としてフレーミングされていたのだ。

1970年代の2つの科学ワークショップも環境問題への関心の高まりにとって重要だった。これらのワークショップはMITの経営学者Wilsonによってオーガナイズされた。1970年7月、SCEPが開かれた。翌年の7月にフォローアップとしてSMICが開かれた。SCEPでSSTの大気影響が関心を集めたので、SMICはとくに人為的な気候の変化に焦点を当てた。ふたつのワークショップは1972年のUNCHEを意識したものであり、UNCHEとともに、地球温暖化への関心の発展において重要な役割を果たした。SCEPの報告書の編者を務めた気象学者KelloggはLahsenからのインタビューの中で、彼自身の人間由来の気候変動の可能性への関心の発展にとってSCEPとSMICが重要だったと語っている。SCEPの重要な知見は人間がSST成層圏を変えるという可能性を認識したことだった。KelloggはSSTがはじめて、人間が大気を変えうるという考えに至らせたと語っている。SMICの時点では、地球は温暖化するという人もいたし、寒冷化するという人もいた。1980年代、人間による気候変動という文脈では、「核の冬」がはやった。これはコンピュータシミュレーションに基づいていたが、当時ですら、このような研究へ懐疑的な見方があった。1985年、フィラハで会議が開かれた。一連の会議は気候変動の問題を科学の問題から政治の問題へ広げる役割を果たした。

環境への関心が高まるにつれ、環境関連分野のリーダーたちはこれを研究予算の要求のために使うことを学んだ。しかしこれはもろ刃の剣だった。科学が予算獲得のために社会にとって有益であると自身を正当化しなければならないという傾向を強化してしまうからだ。「社会的利益のための科学」という政府の要望は、科学者が何を研究し、何を語るか、ということを深いところで形作った。これはまた、気候モデリングの研究者でない科学者が人為気候変動の理論に抵抗する傾向を強化してしまった。こうした変化は科学者にとってコアとなる価値観の変更を迫るものだったからだ。第2次大戦後のVaneber Bushによる基礎科学重視の科学政策では、科学は社会にとって良いものであり、その恩恵は何らかの形で社会に利益をもたらすものの、科学の目的はそこにあるわけではないのだという考え方が土台にあった。しかし1980年代に入って以降、科学は社会にとって役に立つことを求められるようになった。科学研究はよりトップダウン型になり、大型のプロジェクトという形で進められるようになった。そのようななかで、1980年代、地球変動という考え方が持ち出され、諸科学の統合という形で地球システム科学という概念が生み出された。地球システムという言葉は科学コミュニティが予算獲得のために政府への売り込みに使うキャッチフレーズでもあった。米国地球変動研究プログラムUSGCRPがブッシュ政権下の政府の資金援助を受けてはじまった。

1988年の夏以降に、反環境保護運動バックラッシュが起こった。バックラッシュのピークは1990年代初めから中ごろにかけてで、この時期は米国史上初めて、反環境保護運動がおこった年として記録される。

*1:Resolution No.1721 (XVI) on 20 December 1961