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気候変動と科学と社会

気象学のジョン・ドルトン

毎日すごく暑くてやってられない。なるべく気温の上がらないうちに研究室へ行こうと思うんだけど、なにしろ朝起きた時点ですでに暑いんだからどうしようもない。太陽の日差しを遮る雲すらない空を見ると、この前まで梅雨だったとは思えないし、それはそれで憂鬱だった雨の続く日々が懐かしくさえ思えてきた。

梅雨時のある大雨の日、夕飯時に近所のうどん屋に寄った。外はすごい雨だからか、いつもよりお客さんは少なくて、ぼくはいつもみたいにざるうどんを注文した。窓の外では水の塊が落ちてきたかのように雨が降っている。うどんをすすりながら、むかしの人は雨をどういう風に見ていたんだろうと考える。だって空からこんなにたくさんの水が落ちてくるなんて、すごく不思議じゃないか。空は世界中とつながっているんだから、過去ともつながってるかもしれない。少なくとも古典的な因果律によるとすれば。

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18世紀のイギリスのケンダルという街にも、空と天気に興味を持った若者がいた。おそらく熱心に空を見つめていたんだろう。名前をジョン・ドルトンという。そうそう、あのドルトン。化学の教科書に出てくる人だ。

ドルトンは15歳の時に生まれ育った小さな村を出て、生活のためにケンダルで兄と一緒に教師として働いていた。兄弟は小さいころからお金で苦労していたらしい。その街でジョン・ガフという学者と知り合った。ガフはさまざまな学問や語学に通じた教養人で、尊敬を集めていた自然哲学者だった。気象にも興味を持っていて自分でも気象観測をやっていた。若き日のドルトンはガフから数学や自然哲学、ラテン語ギリシャ語、フランス語を学び、またガフの影響で気象観測に興味を持って、21歳のとき彼も観測を始めることにした。几帳面な性格だったらしく、毎日の気象観測はドルトンの生涯の日課になり、観測ノートは死の前日までつけられた。

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ヨーロッパで近代的な気象観測が広まったのは17世紀中ごろからなんだそうだ。初期の頃の気象観測は今で言う日記帳みたいなものだった。まだ近代科学の理念が気象観測まで浸透していなかったので、人びとは珍しい気象現象が起こった時だけ、その時の情感や詩なんかを添えて記録に残したりした。毎日決まった時間に、予め決めておいた項目を観測して記録する、というやり方は後になって一般化したもので、当時このような気象観測の担い手はお医者さんたちだった。天気と心身には深い結びつきがあると考えられていたからだ。

観測器具が流通したので日々の観測はいわゆる知識層の趣味のようなものとして広まった。フランスのラボアジェも気象観測に執心していたという。同じ時代のイギリスでは観測の方法論もずいぶん系統的になっていて、王立協会の幹事が標準規格を提案して、各地の会員から観測結果を集めるという試みがされたこともあった。むかしは今みたいにインターネットがあったわけでもなく、電信が発明されるまでは郵送で各地の気象データを集めるほかなかったわけだ。だからものすごく時間がかかったし、当時は科学的な天気の予測なんて夢のまた夢に思われた。

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とはいえ、18世紀英国ではすでに、こうして集めた世界のいろんな地域の気象や気候に関する情報をもとにした、気象学の理論も一般的になっていた。有名な例に彗星の予言でおなじみのエドモンド・ハレー(1656-1742)による大気循環理論(1686年)がある。ハレーは先駆的な気象学者でもあった。むかしから貿易風の存在は知られていたが、それがどうして吹くのかというのは一つの大きな問題で、ハレーはこれを説明しようとした。ハレーは大科学者として名声が高く影響力も大きかったから、ハレーの理論は広く知られていたけども、今から見ると根本的な間違いもあった。貿易風がもっと大きな大気の循環の一部だという認識は正しかったが、貿易風の説明で本質的に重要だったのは地球の自転による見かけの力を考えることだったのだ。ハレーの理論にはそれがなく、地球の自転による効果を大気循環の理論に初めて組み込んだのはジョージ・ハドレー(1685–1768)という人の1735年の仕事だった。

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ちょっと気の毒だけどおもしろい話は、このハドレー流の大気循環理論が、歴史上何度も何度も独立に再発見されているということだ。つまり、ハドレーの仕事はぜんぜん知られていなかった。イングランド国内でさえ、あやうく忘れ去られるところだった。一説にはハレーやハドレーの弟と名前が混同されていたからだとか言う話もある。HalleyとHadley、確かに似ている。ちなみに独立発見者のなかには意外な名前がある。マクローリン、イマヌエル・カントラプラス、そしてジョン・ドルトン。そう、ドルトンもハドレー流の大気循環理論の独立発見者の1人なのだ。彼のキャリアのはじめの方の仕事はおもに気象に関するもので、彼は論文のなかで、ハレーの「誤った」理論が長いこと広く受け入れられていることをひどく嘆いたりしている。発表するすぐ前に自国でこの説を唱えたハドレーのことを知ったらしく、ドルトンの言及のおかげで以降ハドレーの名前と業績が認知されるようになった。

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ドルトンの主著は彼の化学的原子論を提唱した『化学哲学の新体系』が知られるけれど、化学者としての一般的なイメージからすれば意外なことに、彼が最初に出版した著書は気象観測と気象学に関する教科書的な本だった。さっき書いたようにドルトンの自然哲学者としてのキャリアのスタートは気象研究だったのだ。気象研究といってもその範囲は広くて、生涯のうちに、風に関する理論(大気循環理論)のほか、オーロラについて考察していたり、大気組成に関する研究や、降水量や蒸発速度を測定して水文学的な水循環を定量化しようと試みたりしている。毎年夏には湖水地方にバカンスに行って、山の探検を楽しみ、高地気候を観測した。ただし、ほかの気象学者の研究の結果に依拠することはあんまりなかったようだ。

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ドルトンの気象への関心は意外な方向へと進む。気象の基本的な要素である気体の性質や水の蒸発に興味を持ったドルトンは、気体に関する考察をいろいろと行っている。今日彼の名前で呼ばれる、『ドルトンの分圧の法則』の基本的なアイディアはこの時に得られたものだ。水が蒸発して水蒸気になり、「空気中に溶け込んだり、ふたたび水として出てくる」ことは当たり前に知られていた。ラボアジェたちの研究の結果、空気が窒素と酸素からできていること、大気の組成が均一であることもわかっていた。当時主流だった考え方では、物質の状態変化は粒子の間に働く親和力と斥力という2つの力の兼ね合いで決まるとされた。粒子同士は親和力でひきつけあうが、粒子を取り巻く熱素が斥力を生じる。大気組成の均一性から、窒素と酸素は親和力でゆるく結合していると考えられていたし、水蒸気も空気と結合していると思われていた。

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ドルトンは当時の主流の見解に反して、空気中の水蒸気は空気の粒子とは独立に存在すると考えた。この仮説から、ある温度での水蒸気圧は他にどんな気体があっても一定であるというドルトンの法則が導かれる。これは空気のないはずの真空中でもその「空間」は水蒸気を含むことができるという実験結果によっても支持された。現代的な言葉で言えば、ドルトンは空気と水蒸気は化合物ではなく、単なる混合物であると考えたのだ。

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さて、ドルトンにとって重要なアノマリーは、水に対する気体の溶解度を測る実験を行っているときに発現した。それまでの彼の考えによれば、水への溶解度は同温同圧のもとでは気体の種類にはよらないと考えられた。ところが実験の結果明らかになったのは、気体によって溶解度が異なるという事実だった。彼はけっきょく、これを気体の究極的な粒子(「原子」)の質量が違うためだと考えた。そして、独自の方法でいろいろな原子の相対質量を見積もり、論文にさりげなくその一覧表を載せた。これが最初の原子ごとの相対質量の表、つまり原子量表だった。ある科学史家に言わせれば、これこそ近代化学の父たるドルトンの貢献だった。原子ごとの原子量を求める方法を示すことで、後進の化学者にパラダイムを提示し、通常科学的な営為につなげた。また、原子量をもとにした計算から、化学者は反応による生成物の量を定量的に予測し、実験結果と比較するという物理科学としての強力な手段を得たのだ。

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他人の意見に懐疑的なドルトンの姿勢は、彼に独創的な発想と洞察をもたらしたことだろうけれど、この頑固さがその後の彼を化学研究の主流から遠ざけたのも事実だった。ドルトンの方法論はベルセリウスたちによって洗練されていった。いっぽうドルトンは自身の古風な方法に則り、ほそぼそと研究を続けていたけども、かつてほど重要視はされなかったみたいだ。それでも、大学のようなアカデミックの本流にほとんど属さず生涯を一教師としてつつましく暮らしたドルトンは市井の大科学者として彼が暮らしたマンチェスターの市民から大きな尊敬を受けていたし、国内外でも当時の英国を代表する偉大な科学者のひとりとみなされていた。

1793年に彼が初めて出版した著書『Meteorological observations and Essays』は1834年にドルトンの手で第2版が出ている。老齢になっても気象に関する研究論文を発表していたことから、ドルトンにとって気象学は生涯を通じてそれなりに重要な関心の対象だったことがうかがえる。1844年に亡くなったドルトンは、気象学と化学と物理を愛した、もしかしたら最後の世代の「自然哲学者」だったかもしれない。と言うのも19世紀前半は、科学が「制度化」され、科学研究を営む人々の環境がそれまでとは著しく変わった時期にあたるのだ。ドルトンが亡くなった前夜、1844年7月26日のマンチェスターは気温22℃、小雨が降っていた。

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けっきょく、その日の大雨はやむことなく一晩降り続いて、ぼくは雨に濡れながらうどん屋から帰る羽目になった。それから台風が来てまた大雨が降って本格的な夏が来た。いつのまにか梅雨は開けていたようだ。蝉しぐれと、うだるような暑さが続いている。ぼくだってドルトンみたいに、夏の間はイングランド湖水地方でゆっくりバカンスを楽しみたい。

 

 

〈参考文献〉

  • 村上陽一郎 (編), 井山弘幸(訳) (1988) 『科学の名著 第2期〈6〉ドルトン: 化学哲学の新体系 他』朝日出版社, 96+329pp.
  • Dalton, J. (1793) 『Meteorological observations and essays』 Richardson, London and Pennington, Kendal
  • Heymann, M (2010) The evolution of climate ideas and knowledge. Wiley Interdisciplinary Reviews: Climate Change, Volume 1, Issue 4, 581–597
  • Lappert, M. F. & Murrell, J. N. (2003) John Dalton, the man and his legacy: the bicentenary of his Atomic Theory. Dalton Transactions 3811. doi:10.1039/b307622a
  • Oliver, H. & Oliver, S. (2003) Meteorologist’s profile ? John Dalton. Weather 58: 206–211.
  • Persson, A O. (2006) Hadley’s Principle: Understanding and Misunderstanding the Trade Winds. History of Meteorology 3:17-42.
  • Persson, A O. (2009) Hadley’s Principle: Part 2 - Hadley rose to fame thanks to the Germans. Weather 64: 44–48. DOI: 10.1002/wea.239
  • Wilson, C. (2011) The blind philosopher: the contribution to meteorology of John Gough (1757-1825). Weather 66: 309–310. DOI: 10.1002/wea.796

 

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