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気候変動と科学と社会

〈メモ〉チャピウス?シャピュイ?

成層圏にはオゾンが高い濃度で分布していることは広く知られており、オゾン層と呼ばれている*1オゾン層が有害な波長域の紫外線を吸収するので、私たちは地表で生存できている。これはつまり、オゾンが紫外領域の光*2を強く吸収するという事実の帰結なのだが、じつはオゾンには可視領域の光を吸収する性質もある*3。そしてオゾンが吸収する光の波長に応じて、それぞれの領域(吸収帯)には発見者の名前がついている。人体にとって極めて有害な紫外波長領域(200-320nm)に相当するハートリ帯、それよりエネルギーは小さいがやはり紫外波長領域(320-350nm)に相当するハギンス帯、そして可視領域の広い波長域に相当するシャピュイ帯だ。

じつはこのシャピュイChappuis帯はときどき、教科書にチャピウスChappius帯として書かれていることがある。では、シャピュイ帯とチャピウス帯、どちらが正しいのだろうか。

 

答えは、シャピュイ帯が正しい。というのも実は、この問題はいまから21年前に一定の解決をみている古い話なのだ。

 

1993年の日本気象学会誌「天気」第40巻9号の会員の広場という投稿欄*4に、岩井邦中氏による、まさしく「チャピウスそれともシャピュイ?」と題された論説が掲載されている。この論説によると、それまでに出版された超高層物理学や成層圏オゾンの教科書とされる本にはChappius帯として書かれており、著者の方もずっとChappius帯だと信じてきたのだが、小川(1991)にはChappuis帯と書かれており、どうやらこちらが正しそうだ。結局ChappiusなのかChappuisなのか、という内容だ(岩井 1993)。

これには意外な回答がなされた。同誌同号の会員の広場に掲載されたもうひとつの論説は小川利紘氏によるもので、日本におけるChappius/Chappuisエラーの経緯が説明されている。小川氏によれば、当時オゾンの吸光係数のもっとも信頼できるデータとしてある論文を参照したが、その論文にはChappius band と書かれていた。これを読んだ小川氏は当然チャピウスChappius帯なのだと思い、同僚の研究者にもそう教えた。その研究者たちも本を執筆する際にChappius帯と書いた。そうして日本ではチャピウスChappius帯という呼称が一部に広まってしまったのではないか、ということだそうだ(小川 1993)。

 

小川氏は、'おおもと'になった論文の著者たちは日本語圏とハングル語圏出身で、馴染みのない名前のためにChappuisをChappiusと綴り間違えたのだろうと推測されている。Chappuisという名はフランス系の名前らしい。

しかしどうやら、英語圏の書き手も、Chappiusと誤って書く場合がないわけではないようだ。Chappuisという人物について調べようとWikipediaを見たら、Wikipedia 英語版には、

 

the Chappuis bands (sometimes misspelled "Chappius"), a weak diffuse system between 375 and 650 nanometres in the visible spectrum (named after J. Chappuis); 

 

とある。Google Scholar で"Chappius band"を検索すると、学術書らしき本や論文が150件ほど引っかかる。興味を惹かれて手元にある大気化学の古典的教科書Junge(1963)を調べてみると、なんとChappius band と書かれていた。(Junge先生も間違えていたんだ!) 最近の例としてはMüller(2009)がそうである。やはり英語圏でもChappiusとChappuisの間違いはそんなに珍しいわけではなさそうだ*5

ということは、日本でのChappius/Chappuisエラーの広がりは、誤った記載のある日本語の教科書を読んだひとだけでなく、そのような海外の文献を読んで印象付けられたひとをも反映している可能性があると考えられる。

たいへん興味深い話だがそれにしてもどうしてこんなことが起こるのだろう。おおざっぱにはふたつの説明が考えられるだろう。

Chappuis帯の名は J. Chappuis*6によって発見されたことに由来するのだが、もはや固有名詞化しているのでわざわざChappuisの原著論文まで遡って参照するひとは少ないだろう。するとふつうは伝聞で学ぶことになる。つまり、日本で起こったことと同じように、主要な論文の間違いがその論文を参照するときに引き継がれる場合が考えられる。系統的なエラーである。

もうひとつ考えられるのはランダムエラーだ。英語圏話者にとってChappuisという名前が馴染みの薄いものなら、ChappuisとChappiusを単純に書き(打ち)間違える場合があるだろう。この場合、ひとつの論文内でもChappuisとChappiusの両方の綴りが見られる可能性があるので、先の系統的な間違いと判別できるかもしれない。

もしかしたら「Chappius写本」の系統樹をつくることができるかもしれない。それでなくても、どのくらいまでエラーが遡れるのか興味がわく。たっぷり時間のあるときに、大学図書館の書庫に籠って調べてみようと思う。

じつは私はこの経緯をつい最近知った*7。どうしてこんなはなしを今さら調べたのかというと、2014年に書かれたオゾンホールに関するとある解説論文*8を読んでいて、'なつかしい'言葉をみつけたからだ。そこには「チャピウス帯」と書かれていた。チャピウス帯は現代でもひそかに息衝いているのだ(!)

最後に、シャピュイChappuis帯は専門用語なので、学術的な文献では正確な表記がなされることが望ましいと思う。ただ、大気化学史のなかのちいさな突然変異として今日までChappius bandが細々と生き続けていることにはなにやらロマンめいたものを感じてしまう。ヒューマン・エラーが起こりうる以上、これからもきっとどこかでChappius bandは新たに生まれ、生き延びていくのだろう。


参考文献:

  • 浅野 正二 (2010) 大気放射学の基礎. 朝倉書店
  • 岩井 邦中 (1993) チャピウスそれともシャピュイ?天気 40(9): 694
  • 小川 利紘 (1991) 大気の物理化学. 東京堂出版
  • 小川 利紘 (1993) シャピュイと呼ぼう. 天気 40(9): 695
  • 北海道大学環境科学院 編 (2007) オゾン層破壊の科学. 北海道大学出版会
  • Junge, C. E. (1963) Air Chemistry and Radioactivity, Academic Press, New York.
  • Müller, R. (2009) A brief history of stratospheric ozone research. Meteorologische Zeitschrift, 18(1): 3–24.
  • Seinfeld and Pandis (2006) Atmospheric Chemistry and Physics Second Edition. Wiley Interscience.

*1:まあオゾンが存在しないと成層圏は形成されないわけだが

*2:正確には電磁波なのだがここでは赤外・紫外域の電磁波も光とよぶことにした。

*3:オゾンは赤外波長の光も吸収するので(おもに9.6㎛付近)、温室効果ガスでもある

*4:「天気」誌の会員の広場欄ではこれまでにも気象学用語の使い方についての提言がいろいろなされているようで、遡って読んで見るのも楽しいかも。「天気」誌はオープンアクセスなので無料で読めます。

*5:そうはいってもChappuis band と正しく記載されているもののほうが圧倒的に多いことはGoogle検索のヒット数や論文データベース検索の結果からも明らか。たとえば手元にあるSeinfeld&Pandis(2006)や浅野(2010)にはChappuis bandと正しく記載されていますし、日本語でもシャピュイ帯と呼ばれることがふつうになっているといっていいと思います。

*6:ちなみに科学者 J. Chappuisについては小川先生の調査をもってしても手がかりがなく詳細はわからなかったそうです。なんとも興味を惹かれる人物。

*7:チャピウス帯という呼称が誤りでシャピュイ帯が正しいということは以前「オゾン層破壊の科学」(p.32に注がある)で勉強していたときに知ったのですが、経緯までは載っていなかったのです。

*8:ここで名指しするのはなんとなくはばかられるので控えますが、揚げ足をとった所以外の内容は正確でとても分かりやすく書かれているのでたいへんお勧めの文献です。