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気候変動と科学と社会

〈書籍メモ〉Howe(2014)Behind the Curve — Science and the Politics of Global Warming [Chapter2]

  • Joshua P. Howe (2014) Scientists, Environmentalists, and the Global Atmosphere. Behind the Curve — Science and the Politics of Global Warming. Seattle: University of Washington Press, pp. 44-66. [Chapter2]

The multiple deaths of the SST
The SST and the atmosphere
The atmosphere as an environmental issue
Scientists as Environmentalists?
The battle over "Good science"
An atypical environmentalism

 

地球温暖化の科学と政治の歴史において、大気科学者の置かれた役回りは興味深いし、また実際に重要だった。この章では大気科学者たちが地球温暖化に関する環境政策において彼らの立場をとるに至った前史として、SSTによる大気改変問題を取り扱う。これは、人間の活動が地球全体の環境に悪影響を及ぼす可能性が政治的関心を集めた最初の事例である。

アメリカのSST計画はケネディ政権の意向が強かったと見られている。スプートニクショック以降、宇宙航空技術に多大な投資をしていたアメリカはSSTで他国に先を行かれるのを恐れていた。しかしながら、SST計画は2度失敗している。1度目は1967年に、当時のジョンソン政権の政策判断によってとめられ、二度目は1971年にニクソン政権時代、議会によって予算が却下された。

SSTの抱えていた問題は、まず翼に関する技術的な課題、そして経済的な問題があった。さらに1960年代の環境保護運動で力をつけてきた環境保護市民グループSSTによるソニックブームと騒音を問題にして抗議運動を始めた。そのなかには、少数の運動側の環境科学者の協力もあった。環境運動の声は大きくなったが、計画中止の直接の原因は経済性だった。

NCARは1960年に設立された大気研究の総合研究所で、組織としては非政府機関だ。その資金はおもにNSFから得ていた。ニクソン政権は1970年にNOAAを設立した。NOAAは商務省の外局で、政府系機関であり、いわばNCARのライバルだった。非政府機関であるNCARにとって、研究の社会的利益という一面のアピールは資金確保にとって必要なことだった。この点でオゾン層問題はNCARにとってうってつけの問題だった。

1970年代に入り、マクドナルドがSSTによるオゾン層破壊とそれに伴う皮膚がんの増加について熱心に主張し始めた。ほかの大気科学者たちはSSTによるオゾン破壊はほとんど起こらないだろうと考えていた。NCARのケロッグもそう考える一人だった。ジョンストンはNOxの役割に関する研究から、SSTによるオゾンへの影響を訴えはじめた。1970年、MITの後援を受けたSCEP会議が開かれた。SCEPの結論は、SSTによるオゾン層への影響は無視できるものだというものだったが、地球大気のモニタリングと基礎研究への予算を要求していた。その後、運輸省と他国との共同でCIAPが立ち上がった。

大気科学者は一面では環境運動家と志を同じくしているように見えたが、彼らの間には溝があった。1960年代以降の環境運動は反テクノロジー思想を一部受け継いでいた。巨大な技術ネットワークを研究のための必須とする大気科学者は、この点で環境運動家とは意見を異にしていた。この時期、大気科学者にとって適切なアドボカシーは環境保護を訴えることではなく、科学的知見を助言することだったのだ。

 

〈書籍メモ〉カーオ(2015)20世紀物理学史[24章と25章]

  • 第24章 固体物理学の諸要素. pp.471-488. in ヘリガ・カーオ(著), 岡村拓司 (監訳), 『20世紀物理学史 (下)』. 名古屋大学出版会, 2015.
  • 第25章 物理工学と量子エレクトロニクス. pp.489-503. in ヘリガ・カーオ(著), 岡村拓司 (監訳), 『20世紀物理学史 (下)』. 名古屋大学出版会, 2015.

 

第24章は固体物理学の歴史の概観。カーオによれば、固体物理ディシプリンとしての認識論的基盤は量子力学を固体に応用したことだ。量子論以前にはドゥルーデが自由電子気体モデルによる伝導の説明に成功していたけど、金属抵抗の温度依存性なんかを説明することはできなかった。初期の研究では量子論の研究者が活躍する。1927年ごろパウリは固体中の電子にフェルミディラック統計を適用し成功した。しかしパウリにとって固体物理は場の量子論などの理論物理の基本問題に比べるといちだん落ちるものだったらしい。とはいえその後固体への量子論の応用という方向性はパウリから、ゾンマーフェルトを経てブロッホ、パイエルス、ベーテらによる初期のバンド理論につながった。1930年ごろの話だ。この時期にはブリルアンがブリルアンゾーンの概念を提出している。バンド理論はウィルソンによって発展した。ウィルソンはバンド理論によって半導体の性質を説明することに成功した。ウィルソンモデルはその後1930年代をとおしてナトリウムなどの金属に適用され、プリンストンのウィグナーとザイツが発展させた。半導体の研究は大戦中、レーダーのために半導体結晶が必要だったという軍事的な理由から精力的に研究された。半導体に関するもっとも著名な発明は1947年のトランジスタの発明だった。ベル研のショックレー、ブラッデン、バーディーンは表面エネルギー状態の概念を半導体に対して適用することに成功した。3人は1957年にノーベル物理学賞を受賞してる。トランジスタの登場に起爆された半導体物理の急速な発展は固体物理全般の知名度を上昇させた。1950年代までに固体物理は一つのコミュニティとして成立した。1950年当時のアメリカの物理学は核物理学が優勢を占めていたが、1965年までに固体物理は核物理学と比肩するまでに成長した。その成長の背景には半導体産業を中心とする産業界からの大きな資金的援助があった。固体物理の歴史のもっとも顕著なブレークスルーは1957年の超伝導のBCS理論の登場だった。それ以前に多くの物理学者が取り組んだにもかかわらず、超電導現象の理論的な裏付けはすべての物理学者を寄せ付けなかった。ファインマンでさえ超伝導に苦しめられており、彼のBCS理論に対する複雑な態度を生じさせるまでになった。バーディーン、クーパー、シュリーファーは1972年にノーベル物理学賞を得た。バーディーンは物理学賞を2度受賞した唯一の人物だそうだ。ちなみにノーベル賞を2度受賞した人は歴史上4人いて、マリア・キュリーが1903年物理学賞(放射能の研究)、1911年に化学賞(ラジウムポロニウムの研究)を、ライナス・ポーリングが1954年に化学賞(化学結合・分子構造論)、1962年に平和賞(核兵器反対)を、フレデリック・サンガーが1958年(インスリンの構造決定)と1980年(DNAの塩基配列決定)に2度化学賞を受賞している。こちらも化学賞の2回受賞はサンガーだけ。その後高温超電導物質の発見に向けた研究が精力的に行われた。日本企業が工業的応用を見越してかなりの額を支援に費やしたけど、その見通しは結果的には甘かった。


25章はエレクトロニクスの歴史。どちらかというと技術史の話。トランジスタはかなり高価で商業ベースには到底ならないものだったけど、米軍が金に糸目をつけずに買い上げ、研究費を支援した。スプートニクショックの後という時節柄もあったというが、やはり軍事関係による科学研究への影響というのは計り知れない時代があったということだろうな。それの功罪はあるにせよ。デュアルユースは現代でも非常にセンシティブな問題だ。そのあとはメーザー・レーザー開発の歴史について。自分の研究とも関係があるし、今後読み返すこともあるだろう。やはりレーザーも軍事と密接に関係していたようだ。メーザーの理論的貢献をしたタウンズが1964年にノーベル物理学賞を、1981年にショーローがレーザー分光学で物理学賞を受賞した。1981年の同時受賞者のシーグバーンは高分解能光電子分光の人。いつか仕事を勉強することがあるだろうか。

〈書籍メモ〉Christie(2001)The Ozone Layer[Chapter4]

  • Maureen Christie (2001) Chapter 4 The Supersonic Transport (SST) debate. "The Ozone Layer: A Philosophy of Science Perspective". Cambridge University Press. Cambridge. pp.23-28

 

4章はふたたび成層圏オゾン科学の研究の歴史。といっても話の軸になるのはSST論争で、くわしい研究の歴史というよりは、論争がいかにして生まれ、どのように減衰していったかということが主な主題だ。

人類による成層圏飛行は第2時大戦後すぐに始められた。公式に認知されるようになったのは1955年のことだ。1962年までには商業化に向けた具体的な話が可能になるほど技術レベルが向上した。商業的な超音速旅客機計画はさいしょにイギリスとフランスの共同事業として計画され、アメリカ、ソ連が続いた。発足からすぐに、SST計画にはデザイン上の工学的な課題と、商業的なコストの問題が生じた。そんなわけで計画はゆっくりとすすんでいったが、徐々に市民の環境に対する意識も高まっていき、2つの懸念が生まれた。もっとも重要とみなされたのは、SSTによるソニックブームの問題だった。この問題のためにSSTは地上では亜音速飛行を強いられることになった。また思わぬようなさまざまなところから懸念が表明された。たとえば牧場の牛に悪影響があるのではないかとか、海上の岩礁に生息している鳥たちの卵が割れる可能性があるのではないかという話も出たらしい。ソニックブーム問題よりも認知度は低かったが、成層圏という安定した大気層にSSTの排気がどのような影響を与えるのかという観点からの懸念も生じた。こうした問題意識はアメリカのCIAPにつながった。この研究計画の成果や、商業的な採算の問題から、アメリカでのSST計画は大きく縮小を迫られることになった。
SSTの排気による環境影響として最初に懸念が提起されたのは、気候への影響だった。これは1960年代後半に出現したもので、本来非常に乾燥して水蒸気の少ない成層圏に排気として水蒸気が注入されると、凝結して氷の結晶になって成層圏エアロゾルが増えることで太陽放射の反射率が上がり、気候が寒冷化するのではないかというものだった。もうひとつの懸念は排気中の水によるオゾンへの化学的な影響で、Harrisonは1970年にこうした懸念を提起した。彼のモデルは成層圏への水蒸気の注入はオゾンの破壊をもたらすと計算した。

1960年代の間、成層圏オゾン化学の研究はChapmanのモデルの改良として進んだ。Huntは、Hampsonの水蒸気がオゾン化学に重要な役割を果たしているという示唆に基づいて、モデルを立てた。これはChapmanモデルに、ヒドロキシラジカルと過酸化水素ラジカルのサイクルを加えたものだった。LeovyはHuntのモデルを単純化してモデル計算を行い、注意深く反応定数を決めることで成層圏での実測のオゾン分布とうまく一致した結果を得た。ただしこの定数の決め方には問題が残っていた。Hunt−Leovyメカニズムは成層圏オゾン化学において低濃度であっても水蒸気の存在が重要であることを示していた。1960年代の終わりになって、いくつかの重要な反応速度定数が正確に求められた。こうした数値を用いて計算すると、Hunt−Leovyメカニズムを加えたChapmanモデルでは成層圏オゾンの量を十分説明できないということがわかった。

Johnstonは1971年に排気中の窒素酸化物が成層圏オゾン化学に重要な寄与を果たしている可能性を示唆した。窒素酸化物による反応についてはこの当時すでに多くの研究の蓄積があったが、こうした結果は大気中の反応については見過ごされていた。1970年にCrutzenは成層圏化学における窒素酸化物の役割に関する研究を発表しており、JohnstonはCrutzenの仕事を元にモデル計算を行ったのだった。窒素酸化物は触媒として連鎖反応的にオゾンを破壊する。政治学者Clarkは1974年に科学の専門家の助言が公共政策にあたえる役割を明らかにする上で、こうしたオゾン層研究がいい例になると言っているらしい。引用されている彼の文章によれば、1970年のSCEPは(必ずしも成層圏にのみ主眼を置いていたわけではなかったので)成層圏にあまりなじみのない化学者や気象学者が呼ばれて話し合い、成層圏オゾンへの窒素酸化物の影響は無視できると結論した。しかしこうして専門家コミュニティの中でこの問題の認知度が高まることによって、本当にこの問題に取り組む能力を持つ専門家が関心を持つようになり、1971年のSMICでは専門家が注意深く選ばれ、議論はSST成層圏オゾンに対する危険因子であるという結論を得た。

さて、こうした窒素酸化物のオゾンへの寄与の大きさに関してはGoldsmithらによって1973年に出た論文で批判を受けている。というのも、1957年から1963年にかけて世界中で大気圏内核実験が行われた。これはかなりたくさんの窒素酸化物を成層圏中に注入したはずだが、成層圏オゾンの観測の結果はこうした核実験と成層圏オゾン量の間に相関がないことを示していた。であれば、核実験よりはるかに注入する量の小さいSSTのオゾンへの影響も大きくないのではないかというものだ。
1974〜75年にかけて、人為的な窒素酸化物が成層圏での影響が限られている理由は、それまで仮定されていたよりも、成層圏下層での天然の窒素酸化物が多く存在していたためだということがわかった。1960年代後半、Crutzenは成層圏中の天然の窒素酸化物の起源について調べていた。そして生物由来の一酸化二窒素が成層圏での窒素酸化物になるのだろうと示した。Johnstonはこれに基づいて、1980年台までのSSTによる成層圏オゾンへの影響の予測を試算した。

現在の理解では、成層圏での奇数酸素分子の除去に寄与するのは、NOxサイクルが60%、Chapmanメカニズムが20%、それ以外のメカニズムが20%ということになっている。それ以外のメカニズムにはHunt−Leovyメカニズムや塩素サイクルが含まれている。したがって、成層圏への窒素酸化物の注入によるオゾンへの影響はJohnstonが予測したよりは小さかった。
SST論争が衰退した他の要素は、SSTの商業化の規模が初期の予定に比べて大幅に縮小されたことだった。こうして、結果としてはかなりつまらない結論にはなったものの、SST論争は科学者、実務者、そして一般市民が成層圏オゾンのデリケートな性質を知る上で大きなきっかけになった。これはまた、成層圏オゾン研究への大きな刺激になり、Chapmanモデルと実測との不一致という問題の解決へ科学者を誘導することになった。

そんなわけでこの章はSST論争の歴史みたいなものだけど、ぼくはどちらかというと理論史をもうすこし丁寧に追いかけてほしかったな。とくにNOxの寄与が小さいとわかったところなんかはもうすこし説明がほしかった。