read the atmosphere

気候変動と科学と社会

〈論文メモ〉Collins and Nerlich(in press)How certain is 'certain'?

  • Luke C. Collins and Brigitte Nerlich (In press) How certain is ‘certain’? Exploring how the English-language media reported the use of calibrated language in the Intergovernmental Panel on Climate Change’s Fifth Assessment Report. Public Understanding of Sciencedoi: 10.1177/0963662515579626

1. Introduction
2. Background
  Creating a calibrated language
  Reporting the calibrated language of the IPCC
3. Conceptual background
4. Methods and data
6. Findings
  Use of the IPCC’s calibrated language
  Use of analogy to make sense of the findings of AR5
7. Discussion
8. Conclusion

 

1節のイントロは気候変動における科学コミュニケーションの課題について。とくに気候変動問題の科学コミュニケーションでは、不確実性の伝達が大きな問題だ。気候科学者と市民のあいだには、科学の不確実性についての理解の仕方に大きな違いがあり、専門家コミュニティ内部での気候変動の知識の確実性の高まりと、市民の中での気候科学の確実性の理解の間のギャップが広がってしまっている。不確実性の概念自体も問題だ。アカデミックでは、長いこと不確実性とリスクという概念の区別を理論立ててきたが、この論文の論点はこの区別をどうつけるのかということではなく、不確実性という概念が気候変動のディスコースとの関係の中でどのように使われているか、リスクという概念が気候変動緩和の中でどのように使われているかを観察することだ。ここで大事なのは、著者が不確実性を「未知の帰結」と、リスクを「帰結をいくらか予測可能な行動」と関係させて議論している、ということだ。これはまあナイトの古典的な不確実性/リスク概念と対応しているともいえる。

著者は気候科学と公共空間のなかで不確実性コミュニケーションがどんな役割を果たしているのかを理解することが重要だと考えている。なぜなら、不確実性が科学者にとってはオープン化を試みるべき対象である一方で、同時に、不確実性はしばしば気候科学を批判するために用いられるというアンビバレントな状況があるからだ。著者らはIPCC・AR5のWG1レポートのとくにSPMに注目する。IPCCは2007年以降すべての報告書で不確実性についての「Calibrated language」を採用している。IPCC報告書の不確実性コミュニケーションの取り組みはおもに執筆者の便に利するものではあるが、読み手である政策決定者や一般市民もその対象にしている。とはいえ現実には多くの市民が、政治家でさえ、IPCC報告書の知見を知るためにマスメディアの報道を経由している。よってIPCCの不確実性伝達の有用性におけるマスメディアの役割が理解されなければならないというわけだ。また著者らの観察の中でメディア報道は独自にパラフレーズしていることに気付いた。それはおもにメタファーを使ったコミュニケーションで、メタファーの役割についても考察しようとしている。

2節では、研究の背景として、IPCCの不確実性に関する用語の標準化について説明している。IPCCの第1次報告書が1988年に出たと書いてあるが、これは1990年の間違いだろう。1988年はIPCCが正式に発足した年だ。不確実性ガイダンス制定の経緯について、MossとSchneiderがTARの1年前に、SARを読んで確率の割り当てと信頼度の評価にかんする基準が統一できていないことについて考察し(これは1997年に論文として発表されている)、それに基づいてTARにむけた不確実性ガイダンスをつくったと説明している。この経緯は知らなかった。著者はMastrandrea et al. (2010)を引いてIPCC不確実性ガイダンスの説明をしている。しかしよくみると確信度が定量的な数値表示をするということになっている。あれ、2010年にIACの評価書で批判されてAR5では数値つけるのやめたんじゃなかったっけ、と思って引用されている2010年のAR5ガイダンスを読み直したが、引用部は書いてない。えっじゃあどこから引用したんだ、と思って調べてみたら2007年のAR4の統合報告書の要約の最初に書かれている不確実性の取り扱いに関する説明のところから取ってるようだ。だからAR4の確信度のやつがそのまま説明されてるのか。なるほど。いやなるほどじゃない。とにかく、ここの間違いは結構戸惑ってしまった。そのあとはIPCCの不確実性に関する取扱いをメディア報道がどのように扱っているについての先行研究の紹介。Boykoffの2011年の著書によれば6つの国で調査したらIPCCの3つの報告書を確率と確信度を含めて報道しているのは全体の44%あったのに、その意味まで説明しているのは15%しかなかった。僕の感覚では日本ではもっと低いと思う。Kahnというひとはインドで同じようなことを調べてるが、メディアはほとんどIPCCテクニカルタームを使ってないらしい(2014)。Bailey et al. (2014)はUSのメディアは数値範囲と「likely」という形容詞を使うことが増えている傾向にあって、IPCCの用語がメディアによって認められていると分析しているが、科学的確実性をはぐらかすような、穏当な言葉を使う傾向があることも観察している。

3節はこの論文の特徴であるメタファーとアナロジーの分析について。IPCCは科学的知見の権威として、科学的妥当性の認定者としての地位を持つと考えられていて、実際IPCCもいろいろな工夫をしているけど、必ずしも読者や受取手に伝わっているわけではない。実際に影響力を持っているのはやはりメディアで、そのなかでもメディアの発信者のメタファーを使った工夫に著者は注目している。メタファーは身近でなじみのあるものとして問題を伝えることに長けているが、正確性とのトレードオフという問題がある。 Kueffer and Larson (2014)は科学コミュニケーションにおけるメタファーの適切さを評価する基準を上げている:事実の正確さ、社会的に受け入れやすい言葉であること、中立性、透明性。たしかに科学コミュニケーションにおいて、実践者のメタファーの運用はそれ自体面白そうなテーマだ。その有効性を評価するというのも面白いと思うけど、僕にはどうやって評価したらいいのかわからない。心理学的な研究ということになるんだろうか。直喩、つまり ‘X is like Y’というステートメントは、実際に行っていることよりリスクを少なく受け取られるらしい。

4節は研究手法の説明。調査対象はAR5・WG1レポートが公式に発表された2013年9月27日金曜日の前後1週間、つまり2013年9月21日土曜から2013年10月4日金曜までのメディア報道。IPCC報告書の発表を「速報」的に報道したものを調べたということになる。「IPCC」あるいは「気候変動に関する政府間パネル」という言葉が使われた英語圏の刊行物を検索。これらをIPCCの確実性用語でタグ付けし分類する。いっぽう、アナロジーに関しては一個一個中身を見て確認した。著者は ‘[The IPCC] is now as sure that human beings are causing climate change – 95 per cent – as that cigarettes cause cancer’のように、不確実性を比較して報じるためにメタファーを使っているもののみに焦点を絞った。このような構造は、「透明性」の基準に相当するらしい。

5節は得られた知見。だが6節と書かれている。わかりやすいが見落としやすいミスだ。まずは「Calibrated language :CL」について、メディアがどう報じているか。*1 CLがどう扱われているか調べた結果、24.38%(全体では11.80%)が定量化スケールの存在を暗示的に引用していたいっぽう、全体の2.47%が、ふだん一般人の間で使われている意味とは異なる意味で用語が慎重に用いられていることを明示的にしていた。

確実性に関する用語をつかったもののなかで、'extremely likely'は449回、'very'は288回使われた。'extremely'のうち83.3%がクォーテーションマークの中で使われていた。クォーテーションマークが使われているということはその言葉がジャーナリスト以外の人の言葉であるということが示されていたとはいえ、その言葉の意味は示されていなかった。つまり、読者はIPCCの著者が言葉の使用において意図していたことについてほぼ何も情報を与えられていなかった。

また著者はIPCCのプレスリリースで用いられた「明白である」[unequivocal]ということばもよく使われていたことを報告している。これもクォーテーション付きで使われていることが多く、'certainty'と同義語として好んで用いられているのだろうと、著者らは推測している。また、'certainty'という言葉の代わりに'sure'が使われる傾向があった。'as sure as'という使い方も、'as certain as'と同じ意味として使われていた。これは比較の構造を持っていて、アナロジーの形式を伴うことが普通である。「喫煙が肺がんの原因であるのとおなじくらいに」みたいなやつ。sureとcertainは語彙的なリテラシーの問題が考えられるような違いはないため、著者たちは「certain/not certain」のような、よく使われる二分法を避けて確実性のグラデーションを持つ形式を議論する際にsureを用いているのではないかと推測している。

また著者は、確信度とコンセンサスをごっちゃにして報道しているものを紹介している。この例は、デュアルスケールを使っていても、誤解される場合はあるということを示しているのだと著者は言っている。

続いてメディアにおけるアナロジーの扱いについて。AR5の知見に言及してアナロジーを使っているのは42例あって、そのうち重複などを除くと27件になった。AR5の知見との比較例としてもっともよく使われたのがたばこの健康影響で、事例の約半分を占めていた。アナロジーの例としては、気候変動の確実性を、たばこの健康影響とか、宇宙の年齢の見積もりとか、ビタミンの健康効果みたいなものと比べている。また、科学者がこういうアナロジーを使って話しているのを引用している記事も多い。これを著者によれば、アナロジーの妥当性を高めることを意図していたと分析している。ジャーナリスト自身のアナロジーではないということがその中立性を補強するわけだ。科学者は権威の声としての役割を果たしている。科学者を権威として扱うという姿勢は、興味深いアナロジーにつながっている。97%という確実性を、「97人の専門家の意見と、3人の素人の意見、どちらを信じるか」という感じに記述していたり、「外科医の95%が病気と言っているが、のこりの5%がちがうと言っている」のように、確実性をコンセンサスと誤って解釈する形のアナロジーが使われたことを著者は報告している。これは5%のほうの信念をもつひとを軽蔑的に表現することにつながってしまう恐れがある。また、地球温暖化をはじめとする地球環境問題を、人体の病気に例えるというアナロジーも目立って観察されている。これも興味深い。

さて、著者たちも言うように、たとえ95%のほうのシナリオに立ったとしても、それ自体は何をすべきかということを我々に提供するわけではない。むしろ用いられるアナロジーに、不確実性を背景とした行動を促すという機能があると著者たちは分析している。行動に関係するアナロジーとしては、降水確率95%なら傘を持っていくでしょ、みたいな話がある。ほかには、95%手術が必要と医者が言っているとして、手術受けないの?みたいなのとか。ほかには保険のアナロジーなんかも使われているようだ。つまりは、こういうアナロジーが、ある現象の現実性を受け入れるのに、100%の確実性は必要ないこと、ある程度帰結が予想できるときにはディスコースはリスク志向になることを示していると、著者らは分析している。

7節は考察。アナロジーの有用性について。まず気候変動のディスコースは不確実性よりもリスクの話が多いという指摘から。これについて、保険を使ったアナロジーは、低い確率でインパクトの大きい事象についての市民の理解を助けるのに役立つと考えられるが、一方で保険という考えはナイトの分類で言うところの不確実性でリスクではないから不適切というのと、賠償という考えも気候変動問題では適切ではないという点から批判している。あと個人のリスクの話を強調しすぎることの弊害について。市民が気候変動のディスコースを、脅し戦略だと認識してしまうのはまずいという指摘は重要だと思う。話は科学者と受け取りての間のギャップに移る。メディアのジャーナリストは自分の言葉ではなく科学者の言葉をつかうという戦略をとってる。でもそれは科学者のことばを単に通訳してるというわけではなくて、ジャーナリストの意図のもとに選択されたものだ。科学者としては、自分の説明が(とくにアナロジーの部分が)、報道の妥当性を高めるためにメディアに使われうるということを自覚して発言することが求められると言っている。

結論。先行研究はIPCCは科学的知見の権威ある認定者として、その影響力は公共空間にひろく及んでいるとするが、著者は今回の研究から、IPCCの影響力はこれまで考えられてきたよりも小さいという。今後の不確実性伝達の戦略では、メディアの実務者たちの実践からのインプリケーションを考慮することも必要ではないかと提案している。

*1:'Calibrated language'ってどう訳せばいいのだろう。