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気候変動と科学と社会

〈論文メモ〉Agrawala(1998)Context and early origins of the intergovernmental panel on climate change

  • Agrawala, S (1998) Context and early origins of the intergovernmental panel on climate change. Climatic Change 39, 605–620

 

1. Introduction
2. The Context
3. Genesis of the IPCC
  3.1. AN IMMEDIATE RESPONSE: THE ADVISORY GROUP ON GREENHOUSE GASES (AGGG)
  3.2. A PARALLEL BUT DELAYED RESPONSE: AN INTERGOVERNMENTAL ASSESSMENT ‘MECHANISM’
  3.3. COUNTERFACTUAL ANALYSIS
4. From Conception to Birth: June 1987–November 1988
5. Conclusions

 

***

 IPCC設立の経緯に関する論文。
著者は1988年11月のIPCC設立と設立当時の組織構造は突如出現したのではなく、それに先立つ歴史的文脈があったのだという立場を取る。なぜIPCCは1988年にできたのか。なぜ政府間パネルという仕組みになったのか。なぜ三つの作業部会をもつ包括的な科学アセスメントになったのか。これらの問いの答えを著者は歴史的文脈を解きほぐすことで得ようとする。

このメモでは著者の主張を次の2点にしぼった。

  1. IPCC設立の(もっといえば、地球温暖化/気候変動という科学的対象が国際的な政策課題と社会的に認識される)メルクマールになったのは1985年のフィラハ・ワークショップだった
  2. IPCCの最大の特徴の一つである政府間パネルメカニズムは、国連と米国内のさまざまなアクターの間の妥協の産物だった

 

1.について。著者は、IPCC誕生の直接のきっかけになったのは1985年のフィラハ・ワークショップだっととみなしている。フィラハ・ワークショップは1980年、1983年、1985年にフィラハで開かれた一連の会合である。1985年のフィラハ会議を先行する歴史的文脈に位置づけると、まず科学者と(おもに米国の)政策決定者の間での気候変動への関心はすくなくとも1970年と1971年のSCEP、SMICに見て取ることができる。その後、科学者の間での国際的な関心の共有が1979年の第1回世界気候会議で対外的に示された*1。これ以降、1980,1983,1985年に一連のフィラハ・ワークショップが開かれ、科学者と政策決定者の継続的な関心が向けられた。そして著者はとくに1985年のフィラハ会議の時点で十分な科学的知見が確立されたとみなす。

85年のフィラハ会議がメルクマールとみなされる根拠になっているのは、85年以降の活発な動きだ。著者によれば、85年のフィラハの後、ふたつの反応があった。ひとつはすみやかな反応、もうひとつは平行していたが結果的に遅れてきた反応である。前者はいまではすっかり忘れられたAGGGと呼ばれた科学助言パネルの設立のことだ。そして後者はもうひとつの科学助言パネルであるIPCCである。

AGGGは温室効果ガスに関する科学的諮問グループとよばれる専門家パネルで、1986年にWMO、UNEP、ICSUの支援を受けて設立された。気候変動に関する名の知れた専門家7名のメンバーからなる小規模なパネルである。

85年のフィラハ以降、88年11月のIPCCの正式な承認までのあいだに、87年9月/11月のフィラハ/べラジオ会議と88年6月のトロント会議という3つの会議が開かれた。特にトロント会議はそれまでの気候変動に関する会議のなかでも最大規模のもので、温室効果ガスに関する具体的な政策提言がなされ、その後の気候政策交渉の先鞭をつけたことで知られている。 著者によれば、これら3つの会議の実現にはAGGGメンバーが深くかかわっていた。AGGGは気候変動の国際政治の舞台の裏側に関わっていたのだが、肝心のアセスメントパネルとしてはほとんど失敗に終わってしまう。そもそもすでにAGGGがあったのになぜ1988年にIPCCが設立されたのか。これは2.とも関わる。

 

 2.について。Agrawalaの議論の特徴はIPCC成立をはっきりと国連米国の関係の産物だと見なしている点にある。Agrawalaにとって、米国はWMO、UNEP、ICSUにつづく第4番目にしてもっとも特徴的なアクターだ。85年のフィラハ・ワークショップでは、UNEP事務局長トルバが「オゾンの奇跡」を気候変動問題にもつなげようと、気候条約の成立に動いていた。また、そのための国際的な科学アセスメント機関の必要性を訴え、米国へ意向を伝えていた。これをうけて米国では1986年の一年間、国内で検討と議論がなされた。当時の米国は気候変動に関してかなり独特な立場にあった。

まず米国は気候変動の科学研究に関して、当時もっとも層の厚い専門性を持っていた。実際、当時の米国には、NRC、EPA、DOEといった公的機関がそれぞれ独自の気候アセスメントレポートを出すだけの専門性の体力があった。

つぎに、当時米国は世界最大の二酸化炭素排出国であり、最大級の利害関係者だった。国内には強力な化石燃料ロビーがおり、温室効果ガス削減に対してつよく反対する姿勢を見せた。一方で、政治的に力のある環境保護ロビーも抱えていた。

最後に、米国国内の各機関は気候変動に関してそれぞれ異なる立場をとっていた。NRCは科学的不確実性を強調し「もうすこしよくわかるまで待とう」という姿勢だったのに対し、EPAは気候による社会的インパクトを強調し具体的な対策を求めた。DOEは政権の代理的な立場で、つまりは早急な対応は避け、とりあえず時間を稼ぎたかった。それぞれのアセスメントレポートはこれらの立場を反映していた。

これらの各アクター間の最大公約数的な妥協点として、政府間メカニズムによるアセスメントの設立が提案された。これは政権や化石燃料ロビーにとっては対応の時間稼ぎになるし、EPAや環境保護グループにとっても国際的な参加の容認は気候に関する国際的な政策枠組みの達成をうながすことにつながるので受け入れられないものではなかったのだった。米国政府はWMOに政府間メカニズムを含む国際的アセスメント機関の提案を提出し、これは1987年5月にWMOの承認を受けた。つまり、IPCCの基本となる部分はフィラハ・べラジオ、トロント会議の前には出来上がっていたのだ。

 

 [関連する文献のメモ]

*1:この会議が取り上げた問題は翌年以降の世界気候計画という国際共同研究プログラムにつながった。