- Hulme,M. and Mahony,M. (2010) Climate change: what do we know about the IPCC?. Progress in Physical Geography, 34(5): 705-718
〈註〉IPCCに関するこれまでの研究をまとめたレビュー論文。IPCCを主として知識のアセスメントに関する社会科学的な論点を概観している。論文中に挙げられたすべての論者の主張をここに書きくだすことは難しいので、このメモは私が個人的に重要と思うところを部分的にピックアップしたものであることを予め了承いただきたい。
I Introduction
II Origins and mandate
III Expertise and participation
IV Governance and learning
V Consensus and uncertainty
VI Impact and influence
VII Conclusion
IPCCは1988年11月に
ジュネーブで開かれた会議によって正式に発足した。この1980年代後半における新しい形態の知識アセスメントの設立にまつわる科学・外交のポリティクスは多くの論者によって分析されてきている。
Aglawara によれば、1980年代末に
IPCCができた背景には、アメリカのUNEPへの懸念とアメリカ国内の
化石燃料ロビーと環境主義ロビーの間のバランスをとるための方法を探ったためだとされる。
Boehmer-Christiansen は
IPCCに対してより批判的で、
IPCCは科学的・政治的・商業的な関心の意向に沿った科学的情報を提供する「単一のソース」として設立されたと主張し、科学者による実践や科学的情報が政治的意図を補強するために使われることの危険性を指摘した。Boehmer-Christiansen は見方を単純化しすぎているという批判もあって、Shackley と Skodvin は社会科学者による
IPCCの内部的・外部的な力学の研究の必要性を主張した。
Miller は
IPCCの成り立ちについてより分析的に、より広い歴史的観点からアプローチすることを志向し、科学論的な視点を導入した。Jasanoff の co-production の概念を用いて、1980年代後半の国際的な情勢がいかに
IPCCの出現に寄与したかを論じた。Miller は気候概念の変質や国際環境政治の出現、冷戦の終結などの要因を指摘している。
・専門性と参加
この領域の研究関心は2つに分けられる。
2.評価報告書の著者や査読者にはどのような地理的バイアスがあるか
1.に関しては、多くの研究が共通して
IPCCの自然科学への偏重を指摘している。自然科学のなかでも、
ディシプリンごとの重みづけのバイアスに対する批判もある。
社会科学は経済学を除いて、かなり周辺化されており、そのほかの社会科学や人文科学を含めた、多元的な視点の必要性が多くの論者から主張されている。
2.に関しては、1990年代から、
IPCCのプロセスに参加する専門家の地理的バイアスが指摘されている。
IPCC専門家の「
地政学」は、
IPCCの放出シナリオの構造、気候変動に関する知識の
フレーミング影響を与えているとの指摘もあり、アセスメントの正当性に影を落とす要因になっている。
OECD/非
OECD国の専門家の割合や、参加する専門家の「南北」格差も指摘されている。
・組織のガバナンス
IPCCのガバナンスはプロセスのルールに基づいている。このルールは1993,1999年に改訂されており、1999年にレビューエディターが導入され、
IPCC統合報告書の採用、グレイ文献の受け入れをめぐる状況を明確化させた。この1999年の変化はSAR・WG1の8章に関する論争への部分的な対応でもある。
科学的信頼性と品質のコントロールや維持と、政治的信頼性と妥当性の保持の両立は簡単ではない。
IPCCの評価をめぐる論者の立ち位置はかなり分極化している。肯定的な論者のなかには
IPCCはグローバルな問題に対する知識アセスメントの
ロールモデルになると主張するひともいる。
一方、批判もある。Rothman はほかのグローバルな知識アセスメントプロセスを比較して、
IPCCは改善が必要と主張。不確実性のソースに関するコミュニケーションの改良やより質的なデータや知識の必要性を指摘している。
Saloranta とYamineva は
IPCC のガバナンスとオペレーションを Post-Normal Science (PNS) の観点からそれぞれ論じているが、2人は対照的な結論を導いている。
Saloranta は
IPCCのPNSの哲学が実践に反映されている例であると主張するが、Yamineva はこれとは反対に、
IPCCのプロセスにおけるリフレクシビティの欠如を指摘しており、あきらかにPNS的実践ではないと結論付けている。
アセスメントの正統性は
IPCC・AR4のエラーに関する最近の論争によっても論じられており、
IPCCのピアレビュープロセスの透明性や外部の指摘を反映する仕組みが必要であるとの指摘がなされている。
・コンセンサスと不確実性
科学的コンセンサスは、
IPCCの強みでもありと
脆弱性の源であり続けている。
コンセンサスを真実の生産プロセスとして理解すること、つまり異なる意見を軽視することは、プロセスと正統なものではないと批判されている。
IPCCのアセスメントにとって重要なのはコンセンサスを得ることではなく、不確実性の適切な取扱いとコミュニケーションであるとの指摘もある。
不確実性のコミュニケーションへの一貫した方法論の導入へむけて、
IPCCはリーダーシップを取っているにもかかわらず、実際には作業部会毎にことなる認識的伝統があり、不確実性のコミュニケーションの方法も異なっていて、すべての作業部会を統一的に扱うことは困難だった。
これは政策決定者や公衆だけではなく、
IPCCの専門家にとっても、混乱と誤解の原因になるとの指摘がある(Risbey and Kandlikar)。 一方、Ha-Duong によれば、この
多様性はむしろ利点である。多様な多元的な不確実
性コミュニケーションへのアプローチは正統性の確保だけでなく、アセスメントの質の向上にも効果がある。
Van der Sluijs は、不確実性というモンスターを飼いならすには質的なモデルと量的なモデルを組み合わせた不確実性の取扱いが必要だと主張し、NUSAPシステムを提唱している。
不確実
性コミュニケーションの仕方や受け止められ方について、心理学的なアプローチによる研究もなされている。
Patt は、モデルの違いによる不確実性と専門家の意見の不合意による不確実性という、不確実性の2つの
フレーミングが、非専門家の認識に影響を与えていることを示している。
IPCCは気候変動に関する認識共同体の形成を助け、その基盤を強固なものにしている。
IPCC 認識共同体の
インパクトと立場はさまざまな地域的観点から調べられている。
Dahan-Dalmedico と Guillemot は、
IPCCの知識は地域によらず一般的なものであると結論しているが、ほかの研究者は
IPCC の知識には地理的な問題があると指摘している。Mayer and Arndt は
IPCCの認識論的
ヘゲモニーに対して警告しており、Latourは
IPCCを認識論的モンスターであるとさえしている。
Hulmeは英国のメディアがIPCCレポートをいかに伝え、再フレーミングしているか調査した。WalshはSPMに用いられたレトリックデバイスがいかに科学と政治の境界を越えて、公衆に対して働いていることをしめした。
政策立案へのIPCC のインパクトの観点からは、論者の意見はかなり両極端である。
IPCCの初期、MossはIPCCは政策に関係するが政策にくみしないとしたが、1990年代、IPCCの政治的中立性は批判されていた。
Millerは科学と政治の境界マネジメントはSBSTAの設立によって確保されたと主張した、Millerによれば、SBSTAは境界を構築し、信頼を維持しつつ科学と政治の緊張関係をうまく保つことを可能にした。Dahan-DelmedicoもSBSTAを肯定的に考えており、政治的アドボカシーへの過度の接近に対する批判を避けることができると主張した。
しかしこれは共有された見方ではなく、Grundmannは、IPCCは科学を政治的決定の正当化に使うための装置としての特徴を備えていると主張しており、 Pielke とSarewitzは、IPCC は「誠実なブローカー」としての役割に失敗していて、「主義唱道者」か「密かな主義唱道者」に向かいつつあると指摘している。
・著者たちの意見
これまでにIPCCやグローバルな知識アセスメントに関する知見は積み上げられてきている。しかしIPCCによって統合された気候変動の知識のステータスについては別の問題が残されている。
Jasanoffによれば、国際的な権威をもつ知識生産者による知識は政治的・文化的文脈によってかなりことなって受け止められ、解釈される。したがって気候変動のに関するグローバルな知識のローカルで状況依存な特性を明らかにすることはIPCCの提供する知識の受け入れと反発の両方の理解にとって重要である。
それには自然地理学と人文地理学の協働が必要であり、新しい科学の地理学のアジェンダとして現れつつあるものだ。
〈感想〉
IPCCに関する研究をまとめたレビュー論文。ボクにとってはありがたい文献。
IPCCを研究対象にした研究は1990年代から存在する。
IPCCが発足してから今年で26年だが、さまざまな研究が積み重ねられてきた。科学論的観点からの考察も少なくない。このレビュー論文では
IPCCに関する社会科学的な研究がまとめられている。
IPCCに好意的か、批判的か、という点でかなり分極化しているようだ。さまざまな論点が提示されて対照的な意見も並べられているので、そのすべてはちょっと紹介しきれない。しかし、この論文が行っているように、
IPCCの議論において論点を、歴史、専門性の正当性、ガバナンス、不確実性の取り扱い、
インパクトにわけているのは使えると思ったのでぼくも今後こういうふうに分類していこうかと検討している。
この論文における著者らの観点として、著者らは何度も「科学の地理的性格」について言及している。そういえば最近、
リヴィングストンの「科学の地理学」の訳書が日本でも出版された
*1。科学の地理学は科学論でもホットな話題なのだろうか?たしかに気候変動問題はそもそもその背景に政治的な地理的格差、つまり南北問題を抱えていて、それが中立とされている気候科学の知識にも何らかの影響を与えているのではないかという観点はもっともだし、興味深いものだ。著者は自然地理学と人文地理学の協働を訴えているが、実際、地球環境問題に関係する研究プログラムは世界的にこのような自然科学と社会科学の協働の方向で進んでいるような印象を受ける
*2。著者のHulmeさんは地理学のひとらしいが、そもそも気候科学がもともと自然地理学的な伝統を持っていること
*3を考えると、「物理科学化」した現代の気候科学を地理学的な視点から検討することは歴史の
アイロニーというか、まあ自然な流れなのかもしれないが、おもしろいところかもしれない
*4。
ところで、ボクは
IPCCという組織自体に興味があったので、最初
科学技術社会論という学問を知った時、これこそ
IPCCを語る学問だと思ったのだが、素人の管見では、日本語圏の読み物で
IPCCについて科学論的な観点から分析しているものは少ない。というより、
IPCCという組織について、説明以上の言及をしている文献をみつけることすら、日本では案外簡単なことではないと思う。
IPCCはだいたい5-6年に一度、評価報告書を出していて、そのたびにメディアでもそこそこ大きく取り上げられるのだが、そのわりに
IPCCという組織について充分な情報を報じていることはかなりすくない
*5。このような状況も原因の一つとなって、
IPCCについて正確な理解が得られているとは言いづらく、「誤解」も少なくないのではないかと思う。日本でも
IPCCや気候変動に関する社会科学的
*6な研究がもうすこし活発に行われて、正確な記述のある文献が広く読まれるような媒体で出るといいと思う
*7。