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気候変動と科学と社会

〈論文メモ〉Agrawala(1999)Early science—policy interactions in climate change:lessons from the Advisory Group on Greenhouse Gases

  • Agrawala S,1999, Early science-policy interactions in cmate change: lessons from the Advisory Group on Greenhouse Gases. Global Environmental Change 9: 157–169.
1. Introduction
2. Two advisory models from the global climate regime

3. Climate change: from policy for science to science for policy

  3.1. Policy for science
  3.2. Science for policy

4. The rise and fall of the Advisory Group on Greenhouse Gases

  4.1. Terms of reference and membership
  4.2. De Jure and De Facto AGGG
  4.3. Policy initiatives related to the AGGG
  4.4. US politics and the IPCC
  4.5. Green politics and the AGGG: 1988—1990and the IPCC
5. Learning lessons from the AGGG
  5.1. Panel size and target audience must match problem complexity
  5.2. Political and funding contexts matter, but only as a vector sum
  5.3. Panel leaders as nucleating agents 
  5.4. Resilience, an understated quality of advisory panels
  5.5. Tradeoff between continuity and institutional self-preservation
1. イントロダクション

地球環境問題はワインバーグの言うところのトランスサイエンス的問題である。

ジャサノフによると、助言組織の目標は権力へ事実を伝えることではなく、有用な事実―科学的容認性のテストを満足し、理性的な意思決定を支援する知識の状態―を提供することにある。
 
有用な真実を提供することを実現するには、専門家の助言パネルはローカルな信用が必要だ。その国の文脈に合わせた組織の構造をとることになる。よって、ヨーロッパでは少数の専門家と政治家が密室で交流するようなものが正統で信頼できるとされた。一方アメリカでは、科学的なコンセンサスや専門家による助言について公的な説明責任が重要視される。
 
しかしながら気候変動のような国際的な問題においては、前述のような科学的な助言の適切な形が共有されていないので厄介だ。さらにステークスの高い問題なので、さまざまなステークホルダーのアンサンブルも重要になる。
 著者は、組織のデザインでは次の3つの必要性のトレードオフをどう決めるかが大事になると指摘する。科学的信頼性、政治的特殊性、国際政治的正統性である。
 
2. 気候レジームに向けた2つの助言のモデル

著者は助言組織の二つのモデルを説明する。IPCCモデルとAGGGモデルである。
IPCCには大勢の科学者が参加し、多元的なアセスメントプロセスと世界規模のピアレビューを実施する一方で、正式な政府間体制をとっており、その報告書は国際的に公式に承認されるというプロセスを経る。したがってIPCCモデルは科学的信頼性と国際政治的な正統性を同時に要求される。
 
AGGGは1986年に設立された。AGGGは最初、専門家の小さなネットワークと国際的組織と環境助言グループが国際的な科学と政治のアジェンダをほぼ独占してした「ユートピア」時代に機能していた。7人の著名な科学者による小規模の組織で、その体制は政策決定者への個人的な科学的助言の延長にあった。
 
3. 気候変動:科学のための政治から政治のための科学へ

3.1 科学のための政治
1950年代後半から、とくに地球科学のための政治的な整備が積極的になされるようになった。その嚆矢は1957-1958年の国際地球観測年(IGY)で、このときマウナロアでの二酸化炭素の測定がはじまった。
1961年、ケネディ大統領は国連総会の前に、宇宙の平和利用について演説を行い、気象研究の世界的な努力を訴えた。これをきっかけにWMOとICSUは共同で1967年に全球大気観測計画(GARP)を開始した。これは気象予報の精度改善を目的としていた。1970年にはSCOPEが設立し、生物地球化学的循環の研究が進んだ。
 1972年には国連人間環境会議が開かれ、翌年UNEP設立。1974年、真鍋とウェザランドが大気大循環モデルを開発。気候研究の進展は気候変動のもたらす人間へのインパクトについての真剣な議論につながった。
 
3.2 政治のための科学
科学のための政治から、政治のための科学への転換は、1979年の第1回世界気候会議だった。これに続くフィラハ会議は4つの連続会議で1980年,1983年,1985年に開かれた。
1985年10月に開かれたフィラハ会議は、世界の気候の専門家の合意が確認され、政策への提言がなされたという点で画期的だった。
 
4. AGGGの盛衰

気候政策のための助言パネルのアイディアはフィラハ会議の席で、UNEPのモスタファ・トルバによって最初に紹介された。これは1986年6月のAGGG設立へとつながった。
 
4.1 目的とメンバー
1.気候に関係する研究のモニタリングとWMO/ICSU/UNEPスポンサーによる活動のデータ収集
2.温室効果ガス濃度の増加率とその効果の原理的アセスメントの実施
3.温室効果ガス濃度の増加率を受け入れるか軽減するか、の政府の判断に助言する
4.気候条約の初期構想
 
メンバー7人
F. Kenneth Hare — 議長、気候学者、第1回気候会議の組織化に貢献
Bert Bolin, 生物地球化学循環の研究
Gilbert White, 水資源、土地荒廃
Syukuro Manabe,大気科学者、大循環モデルの先駆的仕事
Mohammad Kassas,水資源、土地荒廃
Gordon Goodman 金属汚染による環境へのインパクト、のちにエネルギー政策

Gueorgui Golitsyn、大気科学者、核戦争による予期せぬ気候改変

メンバーはいずれも世界的に高名な科学者で、それゆえに政府もその科学性を信用した。
 
4.2 書類上のAGGGと実際のAGGG
 AGGGは次第に、公式メンバーの欠落が目立つようになる。結果として、組織の重心はグッドマンに移っていくことになった。グッドマンは近い科学者を集めて組織し、これが事実上のAGGG になった。彼らはSEIと関係が深く、一方でAGGG やそのスポンサーとのつながりは弱かった。これが後々このグループの正統性や科学的・政治的影響力の低下の要因になったと著者は指摘する。
 
4.3 AGGGと政治的イニシアチブ
フィラハ会議の結論は気候変動に関する最初の政治議論への参加推進のたたき台になった。1987年のフィラハ/べラジオ会議、ブルントライト報告書、1988年6月のトロント会議は系譜としてつながっていて、これらを結びつけたのは事実上のAGGGのメンバーのネットワークだった。
ベラジオ、ブルントラント、トロントの政治的メッセージは気候変動を国際政治の場へと移した。この進展に対するAGGGの貢献は直接的なものではないが、重要である。
 
4.4 アメリカの政治とIPCC
AGGGのメンバーは乗り気とは言えなかったが、政治活動に反対していたわけではない。しかし、彼らの滑動を科学として呼ぶことに心地の悪さを感じていた。
真鍋やAGGG のメンバーは最近のインタビューで政治と距離をおいた理由について述べている。真鍋は、自分の政治観を主張し始めると、自分の科学者としての信用が傷つけられるおそれがあった、著者によるインタビューで語った。
 
1980年代を通して、気候政策に関する議論におけるアメリカの立場は独特で、なおかつ影響力をもっていた。科学的には、気候研究に関して最も層の厚い専門性をもっていたのはほかならぬ米国だったが、政治的には、この問題への多大なステークスをもっていた。温室効果ガスの最大の放出国であり、共和党政権の支援を受けた化石燃料ロビーは気候変動への行動に強力に反対した。このように米国政府は気候変動とそれへの政治的対応について異なる立場をとった。しかし、1985年のフィラハ会議以降、国際政治的イニシアチブへの関心は共有していた。 
実際、政府は気候変動への国際政治的なコンセンサスを築く適切なメカニズムに自由に動きまわる専門家は必要ないと考えていた。アメリカの最終的な応答は、気候変動の国際的な科学アセスメントを実行する適切な国際的なメカニズムの確立を進めることだった。採用された「政府間体制」は、対策の延期を主張する国内ロビーと積極的な推進を主張する勢力との間の妥協に至るための方策だった。
 
のちの文献にはAGGGからIPCCが生まれたとされることがある。しかし時系列が示すのは、IPCC の設立への動きは1986年にAGGG の設立の時期から始まっていたことだ。IPCC設立の正式な決議は1986年の5月にWMO で可決されたが、その数か月前にはAGGG の最初の活動が承認されている。さらに、AGGGの参加者は1988年の時点でIPCCに単純にバトンを渡したわけではなかった。
著者は、AGGGを単に暫定的な助言の準備としてみるのは前後即因果的な歴史合理化だと指摘している。
 
4.5 グリーンポリティクスとAGGG:1988-1990
IPCC設立のあともAGGGは2年間活動を続けている。IPCC の第1次報告書のサイクルと同じ時期だ。当時、科学者のなかには、IPCC のプロセスは純粋に政治的なものにして、AGGGの科学的アセスメントと融合すべきと考えるものもいた。いくつかの環境グループもIPCC の重要性を軽く見ていた。
 
AGGGは1988年に3つの作業部会を立ち上げて、第2回世界気候会議にむけたアセスメントの作成を始めた。正式メンバーは実質的にAGGGを離れていたので実際の報告書の作成はSEIによって取り仕切られた。3つの部会の統合ミーティングは1989年12月にチューリヒで開かれたが、7人の正式メンバーのうち参加したのは1名だけだった。
 
AGGGによって政策立案の新たな試みも行われた。目的はキーとなるステークホルダー:つまり、科学者、環境リーダー、産業リーダー、政府の政策決定者を集めて政策を議論することだ。結果25人が集まった。しかしこの取組はIPCC の会議に引き継がれた。IPCCはより大規模にこれを行うことにしたのだ。したがってAGGGの取組は影響力を失って行き、結果的にレポートもそうなった。1990年の第2回世界気候会議でIPCCのFARといっしょにAGGGのレポートも発表された。
 
1990年末には、AGGG のもとで働く専門家はいなくなり、「自然選択」によって、AGGGはIPCCにやぶれてしまった。資金援助の当てもなくなり、予算不足になった。ドージはAGGGの最期を「餓えによる死」と述べている。
 
5. AGGGから学ぶべき教訓

著者はAGGGといういまや忘れ去られた先駆的な助言組織から得られる教訓として次の5つを挙げる。
 
5.1:パネルのサイズと対象となる聴衆は問題の複雑性に適したものであるべきだ
AGGG のサイズは気候変動の科学的、政治的複雑性に対して小さすぎた。
もうひとつの欠点は、政治的聴衆がスポンサー組織の上役くらいに限られていたことだ。これは体制のプログラムの評価につながる仕事には適切だったかもしれないが、気候条約の推進などの大きな仕事にはあきらかに不適切だった。
AGGG は少数の国の、小規模の科学者組織で、密室の会談でしかなかった。国際交渉の場では、しだいに発展途上国への配慮や貿易・商業的援助などが決定の均等化を図るうえで重要な要素になっており、AGGGは明らかに不適当だった。
 
5.2:政治的文脈と資金援助は単なるベクトル和ではない
AGGGもIPCC も同様に政治的な文脈でできた。
AGGGはフィラハ会議がきっかけとなり、環境グループは多大な資金援助をおこなったが彼らの関心はしだいに同じ方向へと向かった。気候条約の推進と再生可能エネルギーの開発の方向への合流はクリティカルな議論を妨げた。これはベラジオとトロントで多大な政治的イノベーションを生んだが、のちにAGGG の衰退の原因にもなった。
対照的に、IPCCは対立する政治的圧力の産物であり、IPCC資金援助のチャンネルはこの利害の多様性を反映している。政治的な主張はひとつにきまらない。よってIPCCは特定の立場とつながりを深めることができないので、政治的圧力が不可避であるにもかかわらず、対抗する政治的、資金的影響は、全体的にはほとんど打ち消されることになった。
 
5.3:組織の核としてのリーダーの重要性
どんな組織でも、その最初期にはリーダーが核となり、その役割はとても重要だ。著者は科学的助言の組織の形成について、ふたつのモデルを用いて説明する。
 
主流の権威や特定のイデオロギーから独立するというIPCCの評判は、ほかの専門家がIPCCに参加するかしないかを決めるシグナルになる。著者はこれを自己補強メカニズムとよび、ついには主流の助言組織としてのアイデンティティを確立させるとしている。
 
一方、従来的な科学的助言のスタイルをとる組織は排他的になりやすい。自己選別プロセスが働いて、にたような価値観を持つ人だけになる。これは結局、組織の有用性を損ない、特定のアジェンダとの距離を近くしてしまう。
 
5.4:助言パネルの節度
多大なステークスがともなう政策課題においては、つねに助言パネルを中止や除去への政治的圧力がありうる。政治的圧力が避けられないとしても、助言パネルはこれらの圧力に対抗できるようデザインを選択する必要がある。IPCCは専門家の起用に透明性をもたせるべきだし、特定のアジェンダへの肩入れをしない態度をとるべきだ。
 
5.5:連続性と自己防衛のトレードオフ
もっとも重要な教訓は、存続の必要性と自己防衛本能の間のトレードオフの重要性である。政治の舞台は、ライフスパンがきわめて短い。科学と政治のなかの連続性を、組織としての自己保存の本能に反して保っていくにはどうしたらいいのか?簡単に応えられないと、著者はいう。
 
IPCCは官僚的な体制をとらなかったこと、著者を金銭的に賄わなかったことで、成功したと著者は分析する。しかし気候レジームが京都議定書の調印へと向かうなかで、IPCC はより標的の定められたテクノロジーアセスメントのパネルへ変わっていく必要があるかもしれないと著者は指摘している。
 〈感想〉

 涙なしには読めない件。これはある諮問機関の誕生と消滅の物語…というのは半分冗談ですが。
 
AGGGは1985年のフィラハ会議のフォローアップとしてWMO、ICSU、UNEPをスポンサーとして1986年に設立された諮問機関のことです。その主な目的は温室効果ガスの気候への影響を調査し、温室効果ガスの規制に関する政策目標を評価すること。どうやら、その存在は日本ではあまり紹介されていないようです。ボクが以前読んだAGGGに言及している日本語の文献には、IPCCの前身であるという風に紹介されていた記憶があります(確かな記憶ではありません)。この論文によれば、この説明は正確ではないが、あながち間違ってもいない、ということになるかと思います。
 
AGGGものちに設立されるIPCCも、どちらも気候変動への政治的応答へ科学的な助言をすることを目的としている点では共通している。しかし著者によれば、前者はより伝統的な科学的助言の形態をとっており、IPCCは次世代の性格を持つという点で異なる。
伝統的な科学的助言の形態とは、少数の名の知られた大物科学者と政府の上役が密室で相談する、というようなイメージ。実際、1986年に組織されたAGGGは7人の高名な科学者を集めた小規模の諮問機関だった。一方、1988年に設立されたIPCCはさまざまな点で従来の科学的助言組織とは異なる性格をもつ。たとえば、組織の規模。評価報告書の作成プロセス。科学者だけでなく、政策決定者や環境NGOなどを含めた最終的な承認の仕組み。著者はこの二つの組織が対象とする政策課題―つまり気候変動という全球規模の問題に対して、AGGGの形式は不適当であったとしています。
 
 以下、ワタシの情緒的な感情を多分に含みますので注意。
 
私が面白いと思ったのはまず、正式メンバーである7人の科学者がだんだん離脱していくこと。議長であるハレは原子力委員会へ、ボリンはIPCCの議長へそれぞれ活動の軸足を移し、真鍋もAGGGの活動から距離を取り、最終的に離脱。残りのメンバーもなんだかんだで疎遠に。最終的に正式メンバーとして残ったのはグッドマンだけといった状況で、グッドマンは古巣であるSEIのメンバーを集めて、事実上のAGGGグループとして活動することに。ゆえに著者はAGGGをDe JureのAGGGとDe FactoのAGGGに分けて呼んでます。実はデファクトのAGGGのメンバーは人為気候変動の問題を国際政治の俎上に載せるうえで、間接的ながら非常に重要な役割を果たしたらしい*1
 
1985年のフィラハ会議をきっかけに組織されたAGGGですが、1987年にはべラジオ会議と呼ばれる会議が開かれています。この会議は気候変動の問題に対して政府への具体的な政策を低減したという点でキーポイントとなった会議です。この会議を裏で支えたのはAGGGのメンバーでした。その翌年、1988年ブルントラント委員会の報告書が発表されました。ブルントラント委員会は正式には「環境と開発に関する世界委員会」と呼ばれる組織で1984年に設立されました。同年6月、トロントトロント会議が開かれます。じつはAGGGのメンバーにカナダの環境大臣に近い人がいて、彼らの働きによって実現したものです。そこでトロント宣言がなされ、政治との距離がぐっと近づくことになります。気候変動に関する国際的な科学アセスメント機関の設立を要請する内容も含まれていました。これは同年11月のIPCCの設立につながります。このようにAGGGのネットワークは気候変動の国際政治問題化の舞台の陰で重要な役割を果たしていたわけです。
 
IPCCは1990年の第2回世界気候会議に向けて、第一次評価報告書(FAR)の作成を始めます。実は同時期、AGGGもまた、気候変動に関する科学評価の報告書を作成していました。このふたつの独立な評価報告書はほぼ同時に発表されましたが、IPCCの報告書がさまざまな科学論文に引用されることになったのと対照的に、AGGGの報告書はほとんど引用されず、されても報告書の著者による自己引用…。この報告書の発表後、結局AGGGは資金不足で解散の憂き目にあってしまいました。
面白いと思った2点目は、著者による組織論的考察です。AGGGとIPCC。目標は共通しているにもかかわらず、なぜ異なる顛末を迎えたのか。結果的にIPCCの形式が自然選択により生き残ったのだが、それはどうしてか。この論文は1999年に書かれたものですが、IPCC自体は組織として改変をしてはいるものの、2014年までに第5次報告書を発表しています。
 
 著者は、この明暗を資金援助と人材参加の観点から説明しています。
前者について、AGGGは3つの国際機関をスポンサーに着けていましたが、いくつかの環境グループからの資金援助も受けていました。しかしこれらの支援グループの関心はやがて同じ方向へ合流し、これによって批判的な意見が出にくくなってしまいました。これはフィラハ・べラジオ会議で政治的イノベーションにつながりましたが、最終的にはAGGGの衰退の原因にもなりました。というのも、対するIPCCの事情はまったく異なるからです。そもそもIPCCの設立には米国のイニシアチブがあったとされています。当時、米国は気候変動に関して特殊な立場にありました。気候変動に関する研究を支えていたのは米国の科学者が多く、米国は気候研究の基幹国でした。一方、米国は当時も今も、最大の温室効果ガス排出国でした。ゆえに米国は気候変動政策の最大のステークホルダーでもあったのです。当時の共和党政権から援助を受けた米国内の産業ロビーは気候変動への対応に強力に反対していました。米国政府は気候の科学者と産業ロビーの妥協点として、intergovernmental、政府間体制という仕組みを採用しました。このような経緯ゆえに、IPCCは本来的に様々なステークスの対立のなかにありました。IPCCは様々な立場の組織から資金援助を得ましたが、激しい対立ゆえに特定の立場に対して距離を近くすることはできません。また、その成果は様々なステークスをもつ観点から批判的に吟味されることになります。ゆえに、IPCCは様々なチャンネルから資金援助を受けても、全体として、それらのバイアスを打ち消すことができたわけです。このことはむしろ、IPCCの科学的・政治的信用をいずれも高めることになりました。
 
人材という観点では、組織の最初期にはリーダーが核として重要な役割を果たします。IPCCの場合、議長としてボリンを、作業部会の議長としめホートンを取り付けることができました。彼らの科学者としての信用と、IPCCの特定のイデオロギーからの独立という点は、ほかの科学者がIPCCへ強力することを促進することにつながりました。著者はこれを自己補強メカニズムとして説明しています。これにより、IPCCの信用はさらに高まることになります。
一方、従来型の少数の科学者による閉鎖的なスタイルは、同じような価値観の人ばかりが集まりがちになり、その自己選別プロセスにより、だんだん排他的な性格を強めることになります。これは組織の信用を失落させることになります。結局、AGGGは後者の道を辿り、IPCCにその役割を取って代わられ、資金調達が難しくなり、解散ということになりました。
 
著者によるこの議論は大変興味深いです。もちろん、著者の議論には不足点もありますが*2科学的助言の組織論として貴重な先駆的実例と言えるでしょう。IPCCはその後、方向を転換し、科学的権威として国際的にその権威が認められることになります。その権威ゆえに、IPCCは単なるアセスメント機関に過ぎないにもかかわらず、新たな気候科学の研究を生み出す社会的原動力としての機能をもつようになります。このような、科学的助言機関の権威化と、その科学研究への影響は科学社会学的に非常なは興味深いテーマであると考えています。科学的助言についての議論は最近、日本でも重要視されていますが、この論文から得るところは決してすくなくないのではないか、と思っています。
 
[関連する文献のメモ]

*1:このへんは裏付けが欲しいところ。

*2:著者のIPCC形成論は米国に偏っている気がします。これはほかの気候変動問題史研究にも言えることですが。国際政治の力学にもうすこし重きを置いた研究はその後Miller(2004)らによってなされています。