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気候変動と科学と社会

〈メモ〉19世紀アメリカの気象観測事業と米国特許庁

19世紀、観測装置を用いた定期的な気象要素の観測という営みはすでに先進的な国の人々のあいだで普及していた。19世紀中ごろまでには、各国で実用的な理由のために組織的な気象観測システムの立ち上げの動きが現れ始めた*1。気象災害の早期警告や気象予報の実現にとって、空間的に大きなスケールでの気象データは不可欠だった。こうしたデータの収集には標準化された気象観測と情報伝達が必要となるが、それは個人的な観測の営みを超えて、より大きく体系化された観測システムが必要だった。

アメリカにおいても、19世紀のはじめごろからさまざまな機関が気象観測の体系化を試み始めた。1817年、公有地管理局 [Land Office]が、各地の支局で1日3回の系統的な観測を始めた。1819年には陸軍医務局 [Army Medical Department]が各地の拠点で観測を開始した。その後もいくつかの州で組織的な観測の試みがなされた*2。こうした気象観測の体系化にとって重要だった出来事は電信という新たな情報伝達技術の登場だった。

1846年に初代スミソニアン協会長官 [Secretary of the Smithsonian Institution]の任に就いたジョセフ・ヘンリー [Joseph Henry]は当時アメリカの気象学者の間で議論になっていたストームの問題に関心を持ち、電信を用いてアメリカの国土に広範な気象観測網を築くという構想を練っていた。1848年、各地で散発的に行われていたアメリカの気象観測はスミソニアン協会によって統合され、アメリカ全土に観測網が展開された。スミソニアンは陸・海軍や沿岸測量局 [Coast Survey]などのさまざまな政府機関と協力したが、その中のひとつに特許庁 [US Patent Office]があった*3

特許局は特に、1855年から1860年までの間スミソニアンの気象観測業務を公式に支援し、協力した*4*5。しかしなぜ特許庁が?

実は、特許庁自身も1841年に自前の組織的な観測をはじめていた*6。というのも、1839年に特許庁内に農務部門が設立されてから、農業向けの統計業務は特許庁が担っていたのだ。特許庁は毎年農業統計に関する報告書を出していたのだが、スミソニアンの持つ広範囲の気象情報が得られると都合が良かった*7。当時、観測によって得られた気象・気候情報の主な需要者は農業や公衆衛生に利害関心を持つ人たちで、農業気候学あるいは衛生気候学といった応用気候学が気象観測の推進の背景にあった。

その後、特許庁農務部門は1862年に農務省として独立した。とはいえそのトップが閣僚級 [cabinet level]に昇格したのは1889年のことだ。

さてスミソニアン協会が取りまとめた気象業務の機能は1861年以降南北戦争によって苦境に立たされた。この事業はその後陸軍通信部 [Army Signal Service]を経て、1891年に農務省に移管され、気象局 [US Weather Bureau]となった*8

アメリカの気象観測と特許庁には以上のような因縁があったというわけだ。ちなみに、後継組織であるPatent and Trademark Officeも、National Weather Serviceも、現在は商務省のもとにある。


最後に、話の本筋からは少々逸れるが、関連して興味深い裏話がある。

1855年、ヘンリーが当時の特許庁長官 [Commissioner of Patents]チャールズ・メイソン [Charles Mason]に支援を依頼した際、特許庁側はヘンリーにある条件を提示したようなのだ。それは特許庁内に置かれていたナショナル・インスティテュートのコレクションをスミソニアンに移転することだった*9。これはヘンリーにとって苦渋の選択だった。じつはこのコレクションの移転をきっかけにして、1858年スミソニアン国立博物館が設立されることになるのだ(周知のとおり、現在ではスミソニアン協会は世界最大規模の博物館・研究機関複合体である!)。

しかしながら、ヘンリーにとってスミソニアンを博物館にすることは彼の意思に反することだった。なぜなら当時のアメリカを代表する物理学者であったヘンリーはアメリカの科学研究をヨーロッパのそれに比肩するものにしたいと願っており、スミソニアンは博物館ではなく科学研究機関であるべきだと考えていたからだ*10。しかし結局、ヘンリーは彼の気象観測網構想の実現のためにしぶしぶ同意したのだった。

 

〈Reference〉

*1:Fleming (1997)

*2:Weber (1922) p. 2

*3:財部 (2016) p. 288

*4:Smithsonian Institution Archives: Joseph Henry A Life in Science; Meterology

*5:Smithsonian Institution Archives: Patent Office Ends Partnership with Smithsonian on Meteorological Program

*6:Weber (1922) p. 2

*7:Smithsonian Institution Archives:Patent Office Partners with Smithsonian on Meteorological Program

*8:Glahn (2012)

*9:Rothenberg

*10:高橋 (2007) pp. 295-296

〈書籍メモ〉Howe(2014)Behind the Curve — Science and the Politics of Global Warming [Chapter2]

  • Joshua P. Howe (2014) Scientists, Environmentalists, and the Global Atmosphere. Behind the Curve — Science and the Politics of Global Warming. Seattle: University of Washington Press, pp. 44-66. [Chapter2]

The multiple deaths of the SST
The SST and the atmosphere
The atmosphere as an environmental issue
Scientists as Environmentalists?
The battle over "Good science"
An atypical environmentalism

 

地球温暖化の科学と政治の歴史において、大気科学者の置かれた役回りは興味深いし、また実際に重要だった。この章では大気科学者たちが地球温暖化に関する環境政策において彼らの立場をとるに至った前史として、SSTによる大気改変問題を取り扱う。これは、人間の活動が地球全体の環境に悪影響を及ぼす可能性が政治的関心を集めた最初の事例である。

アメリカのSST計画はケネディ政権の意向が強かったと見られている。スプートニクショック以降、宇宙航空技術に多大な投資をしていたアメリカはSSTで他国に先を行かれるのを恐れていた。しかしながら、SST計画は2度失敗している。1度目は1967年に、当時のジョンソン政権の政策判断によってとめられ、二度目は1971年にニクソン政権時代、議会によって予算が却下された。

SSTの抱えていた問題は、まず翼に関する技術的な課題、そして経済的な問題があった。さらに1960年代の環境保護運動で力をつけてきた環境保護市民グループSSTによるソニックブームと騒音を問題にして抗議運動を始めた。そのなかには、少数の運動側の環境科学者の協力もあった。環境運動の声は大きくなったが、計画中止の直接の原因は経済性だった。

NCARは1960年に設立された大気研究の総合研究所で、組織としては非政府機関だ。その資金はおもにNSFから得ていた。ニクソン政権は1970年にNOAAを設立した。NOAAは商務省の外局で、政府系機関であり、いわばNCARのライバルだった。非政府機関であるNCARにとって、研究の社会的利益という一面のアピールは資金確保にとって必要なことだった。この点でオゾン層問題はNCARにとってうってつけの問題だった。

1970年代に入り、マクドナルドがSSTによるオゾン層破壊とそれに伴う皮膚がんの増加について熱心に主張し始めた。ほかの大気科学者たちはSSTによるオゾン破壊はほとんど起こらないだろうと考えていた。NCARのケロッグもそう考える一人だった。ジョンストンはNOxの役割に関する研究から、SSTによるオゾンへの影響を訴えはじめた。1970年、MITの後援を受けたSCEP会議が開かれた。SCEPの結論は、SSTによるオゾン層への影響は無視できるものだというものだったが、地球大気のモニタリングと基礎研究への予算を要求していた。その後、運輸省と他国との共同でCIAPが立ち上がった。

大気科学者は一面では環境運動家と志を同じくしているように見えたが、彼らの間には溝があった。1960年代以降の環境運動は反テクノロジー思想を一部受け継いでいた。巨大な技術ネットワークを研究のための必須とする大気科学者は、この点で環境運動家とは意見を異にしていた。この時期、大気科学者にとって適切なアドボカシーは環境保護を訴えることではなく、科学的知見を助言することだったのだ。

 

〈書籍メモ〉カーオ(2015)20世紀物理学史[24章と25章]

  • 第24章 固体物理学の諸要素. pp.471-488. in ヘリガ・カーオ(著), 岡村拓司 (監訳), 『20世紀物理学史 (下)』. 名古屋大学出版会, 2015.
  • 第25章 物理工学と量子エレクトロニクス. pp.489-503. in ヘリガ・カーオ(著), 岡村拓司 (監訳), 『20世紀物理学史 (下)』. 名古屋大学出版会, 2015.

 

第24章は固体物理学の歴史の概観。カーオによれば、固体物理ディシプリンとしての認識論的基盤は量子力学を固体に応用したことだ。量子論以前にはドゥルーデが自由電子気体モデルによる伝導の説明に成功していたけど、金属抵抗の温度依存性なんかを説明することはできなかった。初期の研究では量子論の研究者が活躍する。1927年ごろパウリは固体中の電子にフェルミディラック統計を適用し成功した。しかしパウリにとって固体物理は場の量子論などの理論物理の基本問題に比べるといちだん落ちるものだったらしい。とはいえその後固体への量子論の応用という方向性はパウリから、ゾンマーフェルトを経てブロッホ、パイエルス、ベーテらによる初期のバンド理論につながった。1930年ごろの話だ。この時期にはブリルアンがブリルアンゾーンの概念を提出している。バンド理論はウィルソンによって発展した。ウィルソンはバンド理論によって半導体の性質を説明することに成功した。ウィルソンモデルはその後1930年代をとおしてナトリウムなどの金属に適用され、プリンストンのウィグナーとザイツが発展させた。半導体の研究は大戦中、レーダーのために半導体結晶が必要だったという軍事的な理由から精力的に研究された。半導体に関するもっとも著名な発明は1947年のトランジスタの発明だった。ベル研のショックレー、ブラッデン、バーディーンは表面エネルギー状態の概念を半導体に対して適用することに成功した。3人は1957年にノーベル物理学賞を受賞してる。トランジスタの登場に起爆された半導体物理の急速な発展は固体物理全般の知名度を上昇させた。1950年代までに固体物理は一つのコミュニティとして成立した。1950年当時のアメリカの物理学は核物理学が優勢を占めていたが、1965年までに固体物理は核物理学と比肩するまでに成長した。その成長の背景には半導体産業を中心とする産業界からの大きな資金的援助があった。固体物理の歴史のもっとも顕著なブレークスルーは1957年の超伝導のBCS理論の登場だった。それ以前に多くの物理学者が取り組んだにもかかわらず、超電導現象の理論的な裏付けはすべての物理学者を寄せ付けなかった。ファインマンでさえ超伝導に苦しめられており、彼のBCS理論に対する複雑な態度を生じさせるまでになった。バーディーン、クーパー、シュリーファーは1972年にノーベル物理学賞を得た。バーディーンは物理学賞を2度受賞した唯一の人物だそうだ。ちなみにノーベル賞を2度受賞した人は歴史上4人いて、マリア・キュリーが1903年物理学賞(放射能の研究)、1911年に化学賞(ラジウムポロニウムの研究)を、ライナス・ポーリングが1954年に化学賞(化学結合・分子構造論)、1962年に平和賞(核兵器反対)を、フレデリック・サンガーが1958年(インスリンの構造決定)と1980年(DNAの塩基配列決定)に2度化学賞を受賞している。こちらも化学賞の2回受賞はサンガーだけ。その後高温超電導物質の発見に向けた研究が精力的に行われた。日本企業が工業的応用を見越してかなりの額を支援に費やしたけど、その見通しは結果的には甘かった。


25章はエレクトロニクスの歴史。どちらかというと技術史の話。トランジスタはかなり高価で商業ベースには到底ならないものだったけど、米軍が金に糸目をつけずに買い上げ、研究費を支援した。スプートニクショックの後という時節柄もあったというが、やはり軍事関係による科学研究への影響というのは計り知れない時代があったということだろうな。それの功罪はあるにせよ。デュアルユースは現代でも非常にセンシティブな問題だ。そのあとはメーザー・レーザー開発の歴史について。自分の研究とも関係があるし、今後読み返すこともあるだろう。やはりレーザーも軍事と密接に関係していたようだ。メーザーの理論的貢献をしたタウンズが1964年にノーベル物理学賞を、1981年にショーローがレーザー分光学で物理学賞を受賞した。1981年の同時受賞者のシーグバーンは高分解能光電子分光の人。いつか仕事を勉強することがあるだろうか。